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国際寺山修司学会

The International Society Shuji Terayama

                         June  2006                                     

                    会長 清水 義和

 

「国際寺山修司学会」設立大会の報告

 

 国際寺山修司学会【International Society of Shuji Terayama (ISST)】第一回設立大会が平成18年5月6日(土曜日)に名古屋市民会館の第1会議室で行われた。

第1部の「TALKSHOW」ではシンポジウム形式で各ゲストが以下の視点から「寺山」を語った。九條今日子氏(人力飛行機舎主宰)「寺山修司と名古屋」、萩原朔美氏(多摩美術大学教授)「寺山修司と演劇」、森崎偏陸氏(元・天井棧敷)「寺山修司と映画」、本島勲氏(αの会主宰)「寺山修司とラジオ・ドラマ」。各氏から当時の寺山の名古屋での活動のエピソードを交えてのトークで、名古屋在住の元劇団員からも発言がありフロアーと一体したシンポジウムとなった。

 続いて、森崎偏陸氏より「国際寺山修司学会設立宣言」がされ、清水義和(愛知学院大学教授)が基調報告を行った。

第2部は天野天街氏(劇作家・少年王者館主宰)の来賓挨拶、馬場駿吉氏(名古屋演劇ペンクラブ理事長)『寺山修司の俳句と短歌』の公演を頂いた。

続いて、研究発表では北山長貴氏(東海女子大学)「寺山修司のマザーグース」、鈴木章能氏(大阪産業大学)「寺山修司とフォークナー、あるいはフォークナーの周辺」馬場景子氏(日本福祉大学)「東北の食文化」、神谷厚徳氏(名城大学)「寺山修司のドラマと音声学」があった。

第3部は「国際寺山修司学会設立特別講演」でヒュン・ボク・リー博士(ソウル大学名誉教授)『日本語と英語から学ぶ言葉―音声と演劇』司会:都築正喜氏(愛知学院大学・日本英語音声学会会長)を行った。

第4部は「寺山修司の歌と朗読」と題し、蘭妖子氏(元・天井桟敷女優)の歌『惜春鳥』そして、昭和精吾氏(元・天井桟敷俳優)の朗読『アメリカよ』が行われた。薄暗くなった会場に元劇団員のエネルギッシュな声が響き、会場は一瞬にして「寺山ワールド」となった。

 

国際寺山修司学会設立に寄せて

 国際寺山修司学会の設立に際して、元・寺山夫人の九條今日子さんはこの学会が名古屋で開かれたことについて、寺山が中部日本放送でラジオ・ドラマの仕事をした時からの縁がある土地、その名古屋で国際寺山修司学会の発足したことに、「寺山は喜んでいる」と語った。

萩原朔美氏は寺山が制作したラジオ・ドラマについて語り、最後に「寺山のラジオ・ドラマの脚本が春日井建さんの引き出しに残っているかもしれない」と新たな「お宝」出現の可能性を示唆した。

 また、寺山とラジオ・ドラマで一緒に仕事をした本島勲氏は、名古屋のCBC放送局と世田谷の三軒茶屋で寺山と会い、台本を書いてもらった時のエピソードを披露。ずーずー弁だった寺山に馬鹿馬鹿しい芝居書いて欲しいと注文した、タイトルは『大礼服』で、平和だった町が変り、町がめちゃくちゃになる話である。魚屋は魚売らない。魚にダイヤモンドが入っているからだ。みな狂った状態となり、大礼服着た男の出現で、町が変り、町が死んでしまう。ポエティカルドラマで、馬鹿馬鹿しいのでげらげら笑うが、一瞬、笑えなくなる。本島氏は現代の人に寺山の不条理演劇を聞いて欲しいと訴えた。

 萩原朔美氏は「現在のラジオ・ドラマはCD等の使用で、台詞と音楽が同じレヴェルである。しかし、言葉以上のものが寺山のラジオ・ドラマにある」。また演劇に関しては、地方公演は名古屋が最初であり、大須や新幹線の下の百円寄席で上演した思い出を披露した。高橋氏に中日プロの事務所に突然呼び出された話、また、「百円寄席で公演したのはお金がなかったからだ」と告白した。『毛皮のマリー』と『書を捨てよ』を上演した時、美輪明宏氏はうまいが、息子役の萩原はへただったと当時を振り返るエピソード。また、舞台は新幹線高架下なので電車が通るときどうやり過すか、長い台詞のときはどうやめるか、苦労話を披露。新幹線の騒音を「風」にして「さっきの風強かった」とリアクションで逃げたという。『書を捨てよ』は雑誌『高Ⅲコース』に掲載された10代の詩人を扱い、時代を表わした。そのまま、歌を歌わせた。フィクションと現実の境目見えなくなる。詩を使って演劇をやる。客は、あっけに取られた。地方公演で、名古屋は良い思い出でとなり楽しかった。

 名古屋公演の思い出として、九條今日子さんは、中日プロの高橋さんは文化人であり、ハワイで日本の祭・夜店・お化け屋敷・からくりを見せる企画をたてた。そして、ハワイへ行くことになったが、前科が問題となり、ビザが取れなくて企画は流れた「危ない人たちと交流した」エピソードを語った。一方、神戸のルナホールで杮落としがあり『書を捨てよ、』の記者会見では後援が教育委員会であったので寺山と九條は言葉を選んだとのべ名古屋とのギャップを披露。しかし名古屋は思い出の地であり、百円寄席は百敷きで、演劇をしてそこで雑魚寝した。当時は皆お金がなかったから、自費で名古屋に「現地集合」し、ヒッチハイクする劇団員もいた。その時は全てが手作りで、美大の学生に手伝ってもらい楽しかった。

 九條今日子氏は「学会発足を寺山は生前から望んでいた」とし、「寺山はマルチ人間。だから百人語れば、百通りの寺山がある。ここだけではなく続けて、海外に発信して欲しい」と国際寺山修司学会への希望を述べた。

萩原朔美氏は、寺山修司が評価されたのは、海外公演が大半であり、67年から2002年の朝日新聞で劇評は少ない。新劇プロパーを扱い、新劇でなかった寺山を批評するのは少なかった。思想家の山口昌男が、思想から扱った。さまざまな切り口で、演劇で見たものではない批評も開拓し、続けて頑張ってください。

 天野天街氏は、寺山とは生前会っていないが、亡き後、本を装丁した。寺山ハツさんの家に泊めていただいたことがあり、当時、高校ATG『田園に死す』を見た。ひな壇が流れるシーンははじめ退屈であったが、4年後、ビデオでその長いシーンを見ると、そこには瞬間と永遠があることに気がついた。寺山は「胡散臭い。かつての痕跡。有機体。発芽、未来から来る残り香。ぼやりとしたものであって欲しいと」話した。

 馬場駿吉氏は、寺山が俳句を中学2年から始め、短歌を30歳まで書き、高校で俳句大学で短歌を本格的に取り組んだことを紹介。俳壇は狭いので、昭和29年の短歌新人賞で寺山は草田男の作品を下敷きにして作ると、やかましい罵声、排斥が一時あったことを説明。寺山は、9年間、短歌に心血を注いだ。振り返って、精選した作品が多い。その後芝居に行ったが、俳句と短歌が絡み合う素材を映画でも使った。寺山には短歌・俳句が終生あったとし、宗田安正が寺山は、最後はまた俳句に回顧したいと述べたという。

句集「点」で、塚本邦男が、百句集め、全巻解説する。6人の同人誌で馬場氏も入っている。寺山から1975年に「いつも「点」をありがとう」という葉書を受け取ったエピソードを披露。金澤中央郵便局が消印となっている、寺山は忙しい人だが几帳面な人だったと述べる。

短歌「五月の鷹」は、イメージとして、全体が寺山を支配している。青春性を横溢して、寺山自身が鷹のイメージとなっている。短歌研究では、下敷きの歌があるが、イメージをリメイクして自分の句を三通り作った。だが、次々と中身が変る、寺山の仕事は流動的であり、動いていくのが寺山節である。世界が違うし、超えた状況で歌を歌った。

 杉浦民平は「寺山の短歌ひとつも分からない」と言っている。だが、寺山の句は、従来のそれと違い時代を直裁に表現していた。寺山のライフワークの中で、短歌・俳句は大切だ。国際的な傾向として、寺山の俳句・短歌の翻訳があり、英語訳が多い。短い句の作詞法は日本人的な考え方なので、直訳では伝わらない。馬場氏の歌集『ヴェネチアの海馬』は、意訳したものだ。翻訳は、きちんと考え、国際的に発信する。

 ヒュン・ボク・リー博士は、言語学者・音声学者で外国人だが、同時代人であると、証言する。寺山論『アンスピーカブル・アクト』で寺山の反対のことを知る。30~40年前の詩人や劇作家を忘れてしまった。だが、寺山は続いている。タブーをフリートークで『家出の勧め』や『書を捨てよ、町へ出よう』で語った。1960年、家出のムーブメントがあった。勉強することよりは、ボクシングや競馬によって、学習できると説く。寺山は東北アクセントと標準アクセントを峻別した。書き言葉は標準語だが、音は異なる。東北は、口を閉じて発音する。1962年、ドルリー・レイン・シアターで、『マイ・フエア・レデイ』を上演。イライザはコックニーで話した。カーデイナル・バウは大切。寺山は音声学的テクニックを知っていて、標準語と東北アクセントを使い分けていた。

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