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  Caesar and Cleopatra における「創造的進化論」

           ――「超人」としてのシーザー ――

 

          “Creative Evolution” in Caesar and Cleopatra 

            ――  Caesar as a “Superman” ――

 

                                   森岡 稔 

                                MORIOKA Minoru

   

1.   はじめに 

  ジョージ・バーナード・ショーGeorge Bernard Shaw(1856-1950)の『シーザーとクレオパトラ』Caesar and Cleopatra (1901) のヒーロー、シーザーCaesar はショーの「創造的進化論」“Creative Evolution”の中の「超人」“Superman” だと言ってよい。ショーは、戯曲『人と超人』Man and Superman (1903) において「創造的進化論」を確立し、『メトセラへ還れ』Back to Methuselah (1921) においてそれを具現化した。それらの前後に創作された戯曲にも「創造的進化論」の片鱗をのぞかせている。ショーは「高次の進化段階」“the higher stages of evolution”「超人」「生の力」“life force”「心の眼」“mind’s eye”などの用語で組み立てられた「創造的進化論」を「20世紀の宗教」“the religion of the twentieth century” とまで言っている1。ショーは「創造的進化論」によって、現代人に物質主義的に生きることをやめて、知性的な生き方をすることを勧めた。

ショーはニーチェの超人やベルクソンの創造的進化論をふまえて、「生の力」が創造的進化の原動力であり、「超人」が人類に進むべき道を指し示しているという独自の理論を戯曲に表現した。彼の戯曲の中でも『人と超人』『メトセラに還れ』は明らかに創造的進化を謳っているが、それら以外の彼の戯曲に創造的進化の意図が込められていることを前面に押し出している批評は少ない。そういった批評状況の中で、『シーザーとクレオパトラ』のヒーローのシーザーが「超人」であると断言することにはかなりの証拠立てが必要である。

そこで本稿では、端的に“シーザーは「超人」であるのかどうか”についての議論をする。『シーザーとクレオパトラ』の中で、シーザーの言動に「超人」としての特性が見られることを指摘し、クレオパトラというヒロインにシーザーがいわばどのような教育を施したかを考察する2。シーザーが「超人」であるかどうかの議論をめぐって、作品の背景にある創造的進化論の枠組みを考察したい。

 

2.  創造的進化論における「高次の力」とは何か

 ショーの「創造的進化論」への助走として考えられる著作に『完全なワーグナー主義者』The Perfect Wagnerite (1898) がある。その著書の中に「高次の力」“higher power”という言葉が出てくる。ヘーゲル G. W. F. Hegel (1770-1831) も言っているように、「歴史」は人間を通じて自らがその力を表現することに他ならない3。ヘーゲルはこの「歴史」を「世界精神」と呼び、究極的には、人間が「自由」を獲得することが最終目標であると言った。一方ショーは、その創造的進化において物質主義的な状態から人間を解放した上での「精神の自由」をめざした。『完全なワーグナー主義者』はリヒャルト・ワーグナーWilhelm Richard Wagner (1813-1883)の『ニーベルングの指輪』Der Ring des Nibelungen (1848-1874)を分析したものであるが、その中で、ショーはヘーゲルの「世界精神」にあたるものを「神性」“Godhead”と言っている。ショーは『ニーベルングの指輪』の小人アルベルヒAlberic the Dwarf を金と権力だけを執拗に求める人々の代表とし、このアルベルヒに対抗する「高次の力」が働かなければこの世は破滅に至るだろうと考えた。ショーは「神性」について次のように述べる。

 

Such a force there is, however; and it is called Godhead. The mysterious thing we call life organizes itself into all living shapes, bird, beast, beetle and fish, rising to the human marvel in cunning dwarfs and in laborious muscular giants…. And these higher powers are called into existence by the same self-organization of life still more wonderfully into rare persons who may by comparison be called gods, creatures capable of thought, whose aims extend far beyond the satisfaction of their bodily appetites and personal affections, since they perceive that it is only by the establishment of a social order founded on common bonds of moral faith that the world can rise from mere savagery.4 (emphasis mine)

 しかしながら、そのような力は存在する。それは「神性」と呼ばれる。われわれが生命と呼ぶ神秘的なものはそれ自体をあらゆる生きた姿に有機化する。つまり、鳥、獣、カブトムシ、そして魚、発展して狡猾な小人や動くのに骨の折れる筋骨隆々たる巨人にいたるまで、あらゆる生きたものの姿になるのだ。さらにこれらの高次な力は、同様に、なお一層すばらしい同様な自己有機化によって、思考する能力のある生物、すなわち希有な存在の人間となる。それは他の生物と比べれば、神と呼んでもさしつかえない。彼らの目標は彼らの肉体的な欲望や個人的な愛情の充足よりもはるか彼方にまで及ぶ。というのは、彼らは道徳的信仰という共通の絆にもとづいた社会秩序を確立することによってのみ世界が原始的な野蛮状態から立ち上がることができることを見抜いているに他ならないからである。 (強調は筆者)

 

「神性」が進化の中で重要な要素であることが充分わかる叙述である。上にあるように、ショーは生物の進化についてまず、人間の素晴らしさが「思考をする能力を持っている」ことにあると言って精神面を重視する。人間の目標が肉体的な欲望や個人的な愛情の充足といった物質的主義的なものではなく、道徳的な連帯と秩序のある世界であることを押さえている。これは、まさに「創造的進化論」のビジョンである。「高次な力」は単なる動物から人間へ、そして「超人」へと進化するための推進力である。ショーによると、『ニーベルングの指輪』に登場する小人のアルベルヒが物質主義的な卑小な人間の象徴であるのに対し、ウォータンは神性に至る道を進む「高次の進化人種」の象徴である。

「神性」“Godhead”を見通す人間、すなわち「超人」は精神性が高いからといって、19世紀のロマン主義の芸術家にありがちな現実逃避に向かうことはない。現実をしっかりと見据え、実務的能力を兼ね備えて世界を改革することをめざす。ショーは人間の類型の中でも、芸術家こそが創造的進化の担い手だという姿勢を崩さなかった。『シーザーとクレオパトラ』のシーザーは、夢想家であると同時に実務的・政治的手腕をもっている。

 

APOLLODORUS. I understand, Caesar. Rome will produce no art itself; but it will buy up and take away whatever the other nations produce.

CAESAR. What! Rome produces no art! Is peace not an art? Is war not an art? Is government not an art? Is civilization not an art? All these we give you in exchange for a few ornaments. You will have the best of the bargain. 5  (Act Ⅴ, 288)

アポロドラス:わかりました、シーザー。ローマは芸術そのものを産みだしませんが、他の国々が産みだしたものは何でも買い上げて、持ち去るのですね。

 シーザー:何を言う。ローマは何の芸術も産み出さないというのか。平和は芸術ではないのか。戦争は芸術ではないのか。政治は芸術ではないのか。文明は芸術ではないのか。これらのものをみんな我々はわずかの装飾品と交換として与えるのだ。格安の買い物ではないかね。

 

 創造的進化を理解する者は、「芸術」を通して「神性の道」を進み、世界を作っていく。実務的・政治的営みの根本には芸術の精神が宿っているとシーザーは言うのである。彼は夢想家、すなわち創造的進化の行く末を見つめる人間であるとともに、実務的・政治的能力を兼ね備えており、そのことがここでは強調されている。シーザーにおいては、夢想と現実は決して相反するものではない。

 

3.  「高次の力」を得ることができる条件

 「高次の力」を誰もが得られるわけではない。そのためにはいくつかの条件が必要である。「高次の力」を受けるということは、「超人」になるための入り口である。どんな条件が要請されるのだろうか。

 

3-1  「現実主義者」であるとともに「詩人」であること

 ショーは『イプセン主義神髄』The Quintessence of Ibsenism (1891)の中で、世の中には「俗物」“Philistines”、「理想主義者」“idealists”、「現実主義者」“realist”の3種類の人間がいると言う。ショーによると、「高次の力」をもつことができるのは、「現実主義者」だけである。一般に現実主義者というと、実利を求める低俗な市民のように受け取られやすいが、ショーの「現実主義者」はそのような「俗物」とは違う。たとえばここに、人が1000人いると仮定した場合、その内700人が「俗物」、299人が「理想主義者」であり、「現実主義者」はたったの1人である。700人組の「俗物」は自分たちの生活を自然に定まっているものとして受け入れ、何事にも疑うことを知らず、多数派であることに満足している連中である。299人組の「理想主義者」は自分たちの生活は失敗だと感じているが、彼らは「自分たちが取り返しのつかない失敗者であるという事実を直視する勇気をもとうとしない」(“The 299 failures will not have the courage to face the fact that they are failures—irremediable failures.” 6) 。 また、「理想はすべて現実だという思い込みの上で個人個人を行動させるのが『現実主義者』の制作である」現実に直面するやり方はすべての理想が現実だと思い込む『理想主義』である」“The policy of forcing individuals to act on the assumption that all ideals are real may be described as the policy of Idealism.” 7) 。700人組の「俗物」、299人組の「理想主義者」を除く、稀少な存在が「現実主義者」である。「現実主義者」は「俗物」のように何事に対しても無感覚に安易に受け取ることをしないし、「理想主義者」のように「現実に対する仮面」(“a mask for the reality”)をかぶることもしない。「現実主義者」は、事実がたとえ耐え難いものであっても直視する勇気を持っている。しかも、現実を直視するだけでなく、彼らはそれを本来あるべき状態に改革していこうとする情熱をもっている8。

ショーに言わせれば、19世紀の芸術家たちの中には、空想にふけり、実務的能力を欠いていたために悲劇的結末を招いた人たちが多い。創造的進化を理解する「詩人」的想像力ばかりでなく「現実主義者」的な実行力を持つ者こそが、世の中を満足できる形に変革できる、とショーは考えた。『シーザーとクレオパトラ』のシーザーは創造的進化の途上にあって、理想の世界を描く詩人的想像力を持ちながらも、現実をしっかりと見据え社会的に行動する「現実主義者」である。それは、シーザーの次のセリフによってわかる。

 

Hail, Sphinx: salutation from Julius Caesar! I have wandered in many lands, seeking the lost regions from which my birth into this world exiled me, and the company of creatures such as I myself. I have found flocks and pastures, men and cities, but no other Caesar, no air native to me, no man kindred to me, none who can do my day's deed, and think my night's thought….Sphinx, you and I, strangers to the race of men, are no strangers to one another….an image of the constant and immortal part of my life, silent, full of thoughts, alone in the silver desert…My way hither was the way of destiny; for I am he of whose genius you are the symbol: part brute, part woman, and part God ---nothing of man in me at all. Have I read your riddle, Sphinx?  (Act Ⅰ, 181-2)

やあ、スフィンクス。ジュリアス・シーザーがご挨拶申し上げる!私は多くの地をさまよい、この世に生まれ落ちたことによって私が追放されて失った土地と、私と同じような仲間の生き物がいないものかと尋ね歩いた。動物たちの群れと牧草地、人間たちとその都市を見つけたが、私以外のシーザーも、私の性分に合った空気も、私に似た人も見出すことはできなかった。昼には私の仕事ができ、夜には私の思いにふけることのできるものは一人もいない。・・・スフィンクスよ、おまえと私は人類にとって異邦人だが、お互いは異邦人ではない。・・・その姿は私の恒久な不滅の生命の一部であり、静かで、思想に満ちて、銀色の砂漠の中でひとりぼっちでいる。・・・私をここへおびき寄せたのは運命の力であった。なぜなら、私こそが、お前がその力を代表する運命そのものであるからだ。スフィンクスよ、お前も私も一部は獣、一部は女、一部は神であり、人間的なものは何もないのだ。スフィンクスよ、私はお前の謎を解いただろうか。

 

上記は、『シーザーとクレオパトラ』の第一幕の冒頭でシーザーがスフィンクスに向かって独白する場面である。彼はこのセリフを言っているときは、スフィンクスの膝の上で眠っているクレオパトラCleopatra にまだ気付いていない。クレオパトラは、プトレミー王Ptolemyを擁する宦官ポサイナスPothinus の陰謀によってローマ軍から逃れるためにエジプトを脱出しようとしているところである。

シーザーの語る「追放されて失った土地」とは、後に述べる「超人」たちが住むところである。その世界は「恒久な不滅の生命の一部であり、静かで、思想に満ちて、銀色の砂漠の中でひとりぼっちでいる」ような世界である9。『人と超人』と『メトセラへ還れ』で明らかにされたように、創造的進化がめざす「神性」へ至る道は意識を発展させ、内面世界を豊富にして心を平静にする道である。人間はそうすることによって物質主義的世界から解放されて、真の自由を獲得する。「スフィンクスよ、おまえと私は人類にとって異邦人だが、お互いは異邦人ではない」という言葉でわかるように、シーザーが想い描いている世界はスフィンクスと同様の瞑想の世界である。シーザーの詩的想像力の源泉はその瞑想世界にある。「神性」の道を進む「超人」シーザーは、「私には人間的なものは何もないのだ」“nothing of man in me at all” と確信的に述べる。

 クレオパトラがいるとも知らずにシーザーがスフィンクスに語りかけた言葉は、いわばクレオパトラに対するシーザーの自己紹介になっている。もちろん、クレオパトラにはシーザーの言っている意味はわからない10。

 

3-2  「古典主義的」であること 

 夢幻の世界から声を発しているようなシーザーに対し、地上の世界のクレオパトラは若くて活力ある女性である。彼が何者であるかを知らないとは言え、彼女は彼を「おじさん」“Old gentleman” などと呼んでいる。冒頭から、シーザーはクレオパトラを男女間で意識されるような女性だと見なしていないことがわかる。年齢も一般的にはシーザー52歳、クレパトラ21歳とされているところを、ショーはシーザーを50歳、クレパトラを16歳としている。ショーはシーザーを感情に押し流されない「進化人種」かつ英雄として描きたかったのである。感情が行動の動機になることがなければ、公正に、冷静に、寛大に物事に対処することができる。このようなシーザーにクレオパトラの地上的愛は不要である。人間性にとって不可欠な感情を捨て去れとショーは言っているのではないが、彼は、愛、嫉妬、憎悪、復讐、権力欲などの感情がいかに人間の成長を妨げているかに気付いていた。しかも、そのような感情は因習的な道徳律によって結びつけられている。そもそも、既成の倫理観と人間の自由意思との衝突がショーの劇の面白さである。行動が感情に縛られていないので、ショーの劇の登場人物は往々にして観客の予想とは異なった行動をとる。その意外性によってブレヒト流の異化効果が生じる。ショーはすでにブレヒトよりも前に異化効果を発明していたのである11。「高次の力」を得た人間は、「感情」を行動の原理とはせず、自己実現の「情熱」をもっている。ショーはその情熱を次のように「古典的なるもの」“classical” と呼んでいる。

 

What I mean by classical is that he can present a dramatic hero as a man whose passions are those which have produced the philosophy, the poetry, the art and the statecraft of the world, and not merely those which have produced its weddings, corner's inquests and executions. 12

古典的という言葉で私が意味しているのは、劇のヒーローを次のような情熱をもった男として登場させることができるということである。その情熱とは、この世において結婚式や、検視や、処刑を生み出した情熱ばかりではなく、この世の哲学や詩や美術や演劇を生み出しもしたところの情熱なのである。

 

 ショーは、歴史というものは個人を通じてみずからを表現する「生の力」の表現だと考えていた。「生の力」は劇のヒーローの情熱を生み出し、それが創造的な「高次の力」として顕現化し、反動や沈滞という因習的な力と衝突する。この「高次の力」を受け、創造的な進化の途上にいることに気付いた知性の人をショーは「超人」と呼ぶ。物質主義的で因習的な俗人と戦うドラマがショーの劇の特色である。したがって、ショーはハムレットを、感情と運命によって振り回されるシェイクスピアの劇においてまれな「高次の進化人種」だとみなした。「この世の哲学や詩や美術や演劇を生み出す情熱」はとりもなおさず人間の創造的進化の活動を推進する情熱である。その情熱は、人を個人的な感情に引きずられることのない、宗教的とも言える衝動的情熱である。「古典的」という言葉は、ショーの場合、そういう深い意味を持っている。

 「高次の力」を携えた「超人」であるシーザーがどんな人間であるかをしだいにクレオパトラは理解するようになる。彼女は自分の好き嫌いで行動することが愚かであることを少しずつ知る。

 

When I was foolish, I did what I liked, except when Ftatateeta beat me; and even then I cheated her and did it by stealth. Now that Caesar has made me wise, it is no use my liking or disliking; I do what must be done, and have no time to attend to myself. That is not happiness; but it is greatness.  (Act Ⅳ, 256)

私がまだ愚かだったとき、フタタティータにぶたれないかぎりは、私は好きなことをしていたのよ。その時でさえ、私は彼女をだましてこっそりとやっていたのよ。今ではシーザーが私を賢くしてくれたから、私の好き嫌いは問題ではなくなってしまったの。私はしなければならないことをする。自分にかまってはいられないわ。肝心なのは幸福なんかではなく、偉大であるかどうかなのよ。

 

 個人の名声や地位などにかまっているうちは、真の統治者とは言えない。支配者であることが幸福ではなくて、大きな歴史の動きの中で、偉大さゆえに自分が統治することが必要かつ当然であると感じたら統治すべきだとクレオパトラは悟った。これは、シーザーがローマの栄光のために支配権を拡げていくことが世界のためにもなり、そのまま自分が創造的進化を歩むことになるのだと本能的に感じるのと同じである。つまり、シーザーは個人的にはドン・ジュアンが想像する天国のような土地を探しているわけだが、同時に、征服によって世界に統一をもたらすことが使命であることを感じとっているのである。クレオパトラの「肝心なのは幸福なんかではなく、偉大であるかどうかなのよ」というセリフは、彼女がシーザー同様、歴史が個人に要請するものと個人の創造的進化の表現が合致していることを彼女なりに言い表したものである。

 したがって、男女間の愛は問題ではなく、ポサイナスがクレオパトラに、シーザーが彼女を愛しているのかと尋ねると、クレオパトラは次のように答える。

 

Love me! Pothinus: Caesar loves no one. Who are those we love? Only those whom we do not hate: all people are strangers and enemies to us except those we love. But it is not so with Caesar. He has no hatred in him: he makes friends with everyone as he does with dogs and children. His kindness to me is a wonder: neither mother, father, nor nurse have ever taken so much care for me, or thrown open their thoughts to me so freely…. Can one love a god? Besides, I love another Roman: one whom I saw long before Caesar--no god, but a man---one who can love and hate---one whom I can hurt and who would hurt me. (Act Ⅳ,257)

シーザーが私を愛しているかですって。ポサイナス、シーザーは誰も愛することはしませんわ。私たちが愛する人って誰なのでしょう。ただ私たちが憎まない人ってだけでしょう。私たちが愛する人々を除いたら、みんな異邦人か敵かなのよ。ところがシーザーはちがうのよ。シーザーは憎しみというものを知らないの。あの人はどんな人でも子どもや犬と同じように仲良しになってしまうのよ。私に対するシーザーの優しさは不思議ね。母も父も乳母だって私のことなんか世話してくれなかった。考えていることをあんなにあけっぴろげに、自由に私に打ち明けてくれなかったわ。・・・人は神を愛せるでしょうか。私は別のローマ人を愛しているのです。シーザーよりずっと以前に会った人なのよ。――― 神ではなくて人間なの――― 愛したり憎んだりすることのできる人間なのよ。私が傷つけることができるし、私を傷つけることのできる人なのよ。

 

 神の要素まで含むシーザーのような「超人」に愛は必要でない。だが、クレオパトラには、シーザーによって統治者としての心得は教育されたものの、人間の愛情には接したい気持ちが残されている。クレオパトラは創造的進化の境地に入りかけたが、やはり彼女には限界がある。歴史的にも彼女が愛するのは、マーク・アントニーMark Antony である。愛することや憎むことを知らなくても、シーザーは人間には優しい。これは「超人」の特質である13。

 

3-3  人間の強さを自覚すること

  少しだけ神であるシーザーは、人間的な、世俗的なものすべてに執着しない。もちろん、男女間の愛についても彼は関心がない。感傷的になりがちな人間感情から解放されている。彼の人生は知性と呼ばれるようなものによって抑制され、広大な公正無私の精神によって貫かれている。人間の感情によって人生が翻弄されるありさまを劇にしたのは、ウィリアム・シェイクスピアWilliam Shakespeare (1564-1616)である。ショーは、人間の弱さを主題としたシェイクスピアの劇を批判する。

 

Shakespear's Antony and Cleopatra must needs be as intolerable to the true Puritan as it is vaguely distressing to the ordinary healthy citizen, because, after giving a faithful picture of the soldier broken down by debauchery, and the typical wanton in whose arms such men perish, Shakespear finally strains all his huge command of rhetoric and stage pathos to give a theatrical sublimity to the wretched end of the business, and to persuade foolish spectators that the world was well lost by the twain…. Surely the time is past for patience with writers who, having to choose between giving up life in despair and discarding the trumpery moral kitchen scales in which they try to weigh the universe, surreptitiously stick to the scales, and spend the rest of the lives they pretend to despise in breaking men's spirits…In Caesar, I have used another character with which Shakespear has been beforehand. But Shakespear, who knew human weakness so well, never knew human strength of the Caesarian type. 14 (emphasis mine)

シェイクスピアのアントニーとクレオパトラは、通常の健康な市民にとって何となく痛ましいものであるように、真の清教徒にとっても耐え難いものであるにちがいない。なぜなら、シェイクスピアは、放蕩によって落ちぶれた軍人と、そういう男がその胸に抱かれて滅びていく典型的なふしだらな女とを忠実に描いて見せておきながら、最後に彼特有の巨大なレトリックと舞台上のペーソスを駆使してこの情事のあわれな結末に芝居がかった崇高さを与え、二人にとっての世界はよい終わり方をしたのだ、と愚かな観客に納得させようとする。・・・絶望して人生を諦めるか、それとも、自分が宇宙の重さを量ろうとして使っている安っぽい道徳の台所秤を捨て去るか、いずれかを選ばなければならぬときに、こっそり秤の方にへばりつき、表向きだけ軽蔑しているふりをしている人生の残りの部分を、人々の精神を破滅することに費やす作家たちを我慢する時は全くもってもう過ぎ去ったのである。・・・シーザーにおいて、私はシェイクスピアが以前に描いたキャラクターとはちがったキャラクターを用いた。しかし、人間の弱さをよく知っていたシェイクスピアは決してシーザーのようなタイプの人間の強さを知ることはなかった。(強調は筆者)

 

 明らかにショーは『シーザーとクレオパトラ』を作る際に、シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』Antony and Cleopatra (1606-7) を意識している。「シェイクスピアが人間の弱さを知っていたが、人間の強さを知らなかった」という言葉に端的に表されているように、シェイクスピアは、感傷的な効果が劇に有利であることから、人を感情的におぼれさせ、人のロマンチックな弱さに介入していくことを非難している15。ショーは、シェイクスピアのこのような手法をとらず、「生の力」を信じ、人間がどうしたら道徳的な崇高さをもち現実をリアリスティックに見る強さが得られるかを劇作において追求したのである。上にあるように『シーザーとクレオパトラ』において、ショーは「宇宙の重さを量ろうとして使っているくだらない道徳の台所秤を捨て去る」こと、すなわち感情に結びついている既成道徳から自らを解放し、新しい倫理観を打ち立てようとしたのである。

 

3-4  復讐を認めないこと

理知的なシ-ザーは感情に惑わされることはない。愛、嫉妬、憎悪、復讐、権力欲などの感情が「超人」にとって創造的進化の途上にある人間の成長を妨げるからである。ショーは、それらの人間的な感情の中でもとくに復讐という感情は、既成の道徳に強く縛られており、そのために人間の精力を浪費していると言う。『シーザーとクレオパトラ』には、シーザーが復讐を嫌悪する場面がある。それは、宦官ポサイナスが策略をめぐらす場面である。彼は、シーザーを裏切ったローマ軍の将軍ポンペイPompey を彼の部下のローマ士官ルシウスLucius に斬殺させた。ルシウスはそれをシーザーに報告し、彼らがシーザーに対して二心がないことを訴える。ところが、復讐を憎むシーザーは彼らの出過ぎた行為を怒る。

 

CAESAR. Murderer! So would you have slain Caesar, had Pompey been victorious at Pharsalia.

LUCIUS. Woe to the vanquished, Caesar! When I served Pompey, I slew as good men as he, only because he conquered them. His turn came at last.

THEODOTUS (flatteringly). The deed was not yours, Caesar, but ours--nay, mine; for it was done by my counsel. Thanks to us, you keep your reputation for clemency, and have your vengeance too.

CAESAR. Vengeance! Vengeance!! Oh, if I could stoop to vengeance, what would I not exact from you as the price of this murdered man's blood. (They shrink back, appalled and disconcerted.)  (Act Ⅱ,208)

シーザー:お前たちは人殺しだ!もしポンペイがファルサリアで勝利をしていたら、おまえたちはシーザーを殺していただろう

ルシウス:敗れたものはみじめですね。私がポンペイに仕えていた時、ポンペイと同じような善良な人々を殺しました。ポンペイが彼らを征服したからです。とうとう今度はポンペイの番がやってきたのです。

セオドタス:(へつらって)シーザー、それをやったのはあなたではありません。私たち、いや私です。それは私の勧告で行われたのですから。私達のおかげで、あなたが寛大だという評判を保ちながら、復讐ができました。

シーザー:復讐、復讐、私が復讐にのめりこむならば、殺された男の血の代償として、おまえたちから何を取り立ててやろうか。(彼らは尻込みして、驚きうろたえる)

 

 いくらその人間の行為が罪深く、因果応報で復讐されるべき理由があったとしても、人間が人間を罰することにショーは賛同しない。ショーと同じ考え方をするシーザーは、既成の倫理観に基づき復讐を当然と思う人々を嫌悪する。ところが、復讐をとがめるシーザーに対しルシウスは、シーザーがかつて何千人もの人間の右手を切り落とし、敵の将軍の首をとったことも復讐ではないかと反論する。するとシーザーは、「そういった行為は懸命な過酷さ、帝国に対する必要な護りであり、懸命な厳しさであり、政治家としての義務であった。だが、まともな復讐よりも十倍も血なまぐさい愚行だった」(“They were a wise severity, a necessary protection to the commonwealth, a duty of statesmanship--- follies and fictions ten times bloodier than honest vengeance! ”, Act Ⅱ, 209.) と言ってルシウスの言い分を認め彼を許す。ルシウスはエジプト軍司令官アキラスAchillas とともに宮殿を立ち去る。立ち去ったアキラスがエジプト軍を指揮してシーザーを攻撃することは目に見えている。このようにシーザーは、彼らを解放することによって自らが窮地に立たされることがあきらかな場合でも、彼らを許してしまう。一般的な見方からすれば、敵をむざむざ逃がしてしてしまうのだから、軍人らしからぬ失態である。しかし、復讐をしてきた人間には復讐を非難する資格はない、と言われたからシーザーはルシウスを解き放ったのではない。復讐をして得意になっている人間たちを近くに置いておきたくなかったのである。単にそうしたかったので、危険であるにもかかわらず、ルシウスたちを放免した。シーザーは、第1幕の冒頭のスフィンクスのように、「少しばかり神」なので、怒りとか憎しみとか恐怖とかの人間の感情から超越している16。「人間的なところがない超人」は偉大であるので、人に対して寛大である。ショーによると、偉大な人間は「自分のしたいことを自然に行う」人間である。

 

The really interesting question is whether I am right in assuming that the way to produce an impression of greatness is by exhibiting a man, not as mortifying his nature by doing his duty,… but by simply doing what he naturally wants to do. For this raises the question whether our world has not been wrong in its moral theory for the last 2,500 years or so. (Note to Caesar and Cleopatra, 304-5)

ある人が偉大であるという印象を与えるのは、ある人が自分の本性を抑制して自分の義務を果たすことによってではなく、自分のしたいことを自然に行うことによってである。そういう仮定をする私が正しいかどうかは本当に興味ある問題である。なぜなら、私の考えが正しいかどうかは、私たちの世界が道徳的理念において二千五百年くらいの間、まちがっていなかったかどうかという問題を提起するからです。

 

 それまでは義務を果たすことが自らを偉大にみせる方法だったのに、本性にさからわずに「自分のしたいことを自然に行う」ことが自らを偉大に見せることになるとショーは言う。そういうことを言うのは、従来の道徳的理念をまったく覆すようなことになるということをショーは充分承知している。シーザーは、ルシウスに言われるまでもなく殺戮も多くしてきた。彼は「少しばかり神」なので、ひかえめに言えば「偉大な人間」なので、完全に何ものにもとらわれずに「自分のしたいことを自然に行ってきた」のである。

 シーザーはさんざん殺戮をしてきたが、それは、歴史の大きなうねりの中で施政者として決断しなければならない仕方のないことかもしれない。殺戮をしてきた一方で復讐を嫌悪するというシーザーの矛盾は、これにとどまらない。ルシウスとアキラスを放免したことや、ローマに通じる海路の東側の港を守るための戦略として西側のシーザーの軍船を燃やしたことで、その火がアレキサンドリアの大図書館に燃え移っても平然としていることが挙げられる。宮殿を脱出して灯台のある湾内のファロス島に着いたシーザーのもとに、ペルシャ絨毯にくるまったクレオパトラがやって来る。その後の場面で、シーザーは秘書ブリタヌスBritannus が持ってきた謀反人たちの情報を記した書簡の袋を海に投げ捨ててしまう。エジプト軍がファロス島に上陸してきたので、シーザーが灯台から海に飛び込み、あとから海に飛び込んだクレオパトラを背中に背負って泳ぐ。大切な兵士を見捨てての行動である。観客たちは次から次へと、劇の展開の予想をはずされる。シーザーの行動が読めないのだ。まさにシーザーは「自分のしたいことを自然に」行っているからなのである。

観客は既成道徳にしばられているので、劇の展開において予想が裏切られるのである。観客の既成の倫理観と創造的進化の間で、真の人間存在になるための条件とがくいちがっている。人間が道徳の抑制を受けることで成長が妨げられ、人間の自由が狭められるひとつの例である。

 

3-5  有徳であること

 創造的進化のために「高次の力」を得るためには既成の道徳に縛られないでいることが必要であるが、シーザーのように偉大でなければ「自分のしたいことを自然に行うこと」はできないのであろうか。創造的進化において、人間は「生の力」を信じていれば、もともと「善」である人間は行動を間違えることはないとショーは考える。シーザーのようにもともと偉大でなくても、シーザーと同じ行動をとることはできるのである。ショーは次のように言う。

 

In order to produce an impression of complete disinterestedness and magnanimity, he has only to act with entire selfishness; and this is perhaps the only sense in which a man can be said to be naturally great. It is in this sense that I have represented Caesar as great. Having virtue, he has no need of goodness. He is neither forgiving, frank, nor generous, because a man who is too great to resent has nothing to forgive. (Note to Caesar and Cleopatra, 303)(emphasis mine)

完全に何ものにもとらわれない精神をもち度量が大きいという印象を生み出すためには、人間はただ完全に自分本位に行動すればよい。この意味においてのみ、人はたぶん自然に偉大な人間と言われる。そういう意味で、私はシーザーを偉大であるように表現したのである。有徳でありさえすれば、善良である必要はない。シーザーは何かを許したわけでもなく、率直でもなく、寛大な人でもない。なぜなら、偉大で怒ることを知らない人は許さなければならないことは何もないからである。(強調は筆者)

 

 「有徳でありさえすれば、善良である必要はない」という言い方は、『バーバラ少佐』においてバーバラの父アンダーシャフトが「超人」でありながら、なぜ人を殺戮する武器の製造人であるのかを多少なりとも説明してくれるように思われる。ショーによると、創造的進化によって「高次の力」すなわち「生の力」に従って生きる偉大な人間である「超人」が自分のしたいことを自然に行うことは、「神性の道」を歩んでいるので既成道徳の善を超越している。シーザーは「完全に何ものにもとらわれない精神」をもっているからこそ、復讐や憎しみや既成道徳から解放されているのである。自分を危険にさらすかもしれないのに敵を解放する行為は、既成概念から判断すれば愚かな行動かもしれないが、創造的進化の大きな「生の力」につき動かされていることを暗に示していると言えよう。

『シーザーとクレオパトラ』に限らず、ショーの劇で展開される既成概念からはずれた行為は「異化効果」を引き起こし、現実に観客の目をむけさせ、同時に「高次の力」を感じさせる。劇のところどころに現れるアナクロニズムでさえも、時間を飛び超えて現代にまで目を転じさせ、劇の中で起こっていることが、現代の人間に関する諸問題に直結していることを示している。つまり、ショーの劇は、感情によって劇に没入するのではなく、笑いによって劇中のできごとを対象化し、劇と観客の間に距離を置いて楽しみながら知的に鑑賞するものである。

シーザーの意外な行動は、「有徳でありさえすれば善良である必要はない」ことを根拠としている。寛大であるためには、必ずしも偉大である必要はなく、自分本位に行動すればよいという論理はすぐには理解しがたいだろう。ショーの「創造的進化論」は、人間がもともと「善意志」をもっているという考え方から来ており、人間の原罪を信じる世界観とは異なる。「自分本位に行動する」“he has only to act with entire selfishness”という自由意思をもって既成道徳の善悪を超越した生き方をする人間は、すでに「超人」の域に入っている。ルイス・クロンプトンLouis Crompton は次のようにシーザーの超人性について次のように述べる。

 

Shaw's Caesar is not the reformer of codes, but the man who has outgrown them. He stands for progress, not in the political or social, but in the evolutionary sense. He is a new breed of animal born with sounder instincts than the average man. Being biologically more advanced, he is without the burden of original sin which finds expression in resentment and vindictiveness on the one hand and a respect: for moral systems on the other. His ethic is not the creation of any formal ethical system, but of the developed will which has identified its ends with those of the race; Caesar is the libertarian egoist who in doing exactly what he wants to do serves humanity.17 (emphasis mine)

ショーが描いたシーザーは、規範の改革者ではなく、規範を脱却してしまった人間である。シーザーは、政治的あるいは社会的な意味においてではなく、進化という意味において、進歩したものであることを表している。シーザーは平均的な人間よりも健全な本能を持って生まれた新種の動物である。生物的にずっと進んでいるシーザーは、怒りとか執念深さとかいう形をとるかと思うと、一方では既存の道徳体系に尊敬を払うといった原罪の重荷を背負ってはいない人間である。シーザーの倫理観は形式的な倫理体系から作られておらず、人類の意思と目的を同じくする発達した意志によってできあがっている。シーザーは、自分のしたいことをすることでそのまま人類に奉仕するといった、人間の自由主義的な利己主義者である。(強調は筆者)

 

 ルイス・クロンプトンによると、シーザーは「進化という意味において進歩したもの」、すなわち「超人」である。彼は既成道徳の規範を超越しているので、原罪に根ざした感情や道徳意識をもつ普通の人々からは逸脱した人間である。

ショーはこのような「自分のしたいことをすることがそのまま人類に奉仕する」といった考え方をワーグナーやニーチェから学んだ18。クロンプトンはこういった行動をとる人を「超人」と呼ぶが、シーザーについては、次のようにひかえめに「初期の超人」と言っている。

   

The result is that Caesar must, like Dick Dudgeon, appear to the morally hidebound as another sort of "devil's disciple"; the embryonic superman will usually impress others as shockingly immoral. 19   (emphasis mine)

 結局、シーザーは、道徳的に偏狭な人々の目には、ディック・ダジョンのような「悪魔の弟子」として映るに違いない。シーザーは初期の超人であり、たいていは他の人々に対してひどく不道徳な人間であるという印象を与えるだろう。 (強調は筆者)

 

 何人かの批評家がこの “the embryonic superman” を「未発達の超人」と解釈してしまったためにシーザーの超人性が薄れてしまったが、ここの部分は「人類の初期に現れた超人」と捉えるべきである。アメリカ独立戦争時代を背景にした『悪魔の弟子』の超人性をもつディック・ダジョンよりも、紀元前の頃の『シーザーとクレオパトラ』のシーザーを比べることによって、時代的にも「初期の超人」という解釈の方が自然である。あるいは、ショーが描いた超人たちは、彼の「創造的進化論」における「超人」に対する考え方の発展と相まっており、「超人」に対する考え方がまだ「初期の段階」であるということもある。つまり、シーザー自身が未発達なのではなく、超人に対する考え方が「未発達」なのである。

 さらに、権威エリック・ベントリーEric Bentley が「シーザーは超人でない」“Caesar is not a Superman.”20 と言ったことで、批評家の間では、「シーザーは超人ではない」となってしまっている。ベントリーが定義する「完全な超人」というのは彼の著書の文脈の中において、創造的進化を夢見る「実務的能力を持たない」人間のことを言う。シーザーは実務的に有能な政治家であり、軍人である。ベントリーの「超人」かそうでないかの仕分けの中では、シーザーは「実務的能力」を持っているので、「シーザーは超人ではない」というレトリックになってしまった。ショーはむしろ、「超人」に「実務的能力」をどうにかして付けさせたかったのであり、ベントリーも実はかなりの部分をこの問題の議論に費やしている。ショーは『ジョン・ブルのもう一つの島』John Bull’s Other Island (1907) のブロードベントBroadbentや『バーバラ少佐』Major Barbara (1907) のアンダーシャフトUndershaft のような「超人」と「実務家」を兼ね備えた人物を作り上げることによって、この問題の解決を試みている。残念なことに、「シーザーは超人でない」という言葉が一人歩きをしてしまっている。ベントリーの名誉のためにも、その著Bernard Shaw の叙述の真意をくみ取るべきである。

 

3-6  「リアリスト」であること

 創造的進化を自覚していくには、現実をしっかりと見据える「リアリスト」(現実主義者)でなければならない。シーザーが「リアリスト」であることをよく示しているのは、暗殺者ルシウスLucius に命じてポサイナスを殺させたクレオパトラがシーザーに咎められる場面である。ポサイナスは、クレオパトラがシーザーの保護から離れればプトレミーがクレオパトラに代わってエジプト王に返り咲くと考えた。そこでポサイナスは、クレオパトラがシーザーに対して反乱を企てている、とシーザーに密告したのである。このことを知ったクレオパトラはルシウスにポサイナス殺害を命じた。シーザーはクレオパトラのこの蛮行に怒りを感じた。クレオパトラはシーザーに対し、彼女が裏切りを考えたのではなく、ポサイナスの方が裏切るようにすすめたのだと弁明する。ポサイナスはクレオパトラに裏切りを勧めておきながら、シーザーにクレオパトラが裏切ろうとしていると告げ口をしたのだ。クレオパトラは、裏切りの罪をなすりつけて女王を恥ずかしめたポサイナスを許すことができなかった。ルシウスもアポロドラスもブリタナスも彼女の行為は正当だと言う。彼らの言い分を聞いた上で、シーザーは次のように答える。

 

CAESAR (with quiet bitterness). And so the verdict is against me, it seems.

CLEOPATRA (vehemently). Listen to me, Caesar. If one man in all Alexandria can be found to say that I did wrong, I swear to have myself crucified on the door of the palace by my own slaves.

CAESAR. If one man in all the world can be found, now or forever, to know that you did wrong, that man will have either to conquer the world as I have, or be crucified by it. (The uproar in the streets again reaches them.) Do you hear? These knockers at your gate are also believers in vengeance and in stabbing. You have slain their leader: it is right that they shall slay you. If you doubt it, ask your four counselors here. And then in the name of that right (He emphasizes the word with great scorn.) shall I not slay them for murdering their Queen, and be slain in my turn by their countrymen as the invader of their fatherland? Can Rome do less then than slay these slayers too, to show the world how Rome avenges her sons and her honor? And so, to the end of history, murder shall breed murder, always in the name of right and honor and peace, until the gods are tired of blood and create a race that can understand. (Fierce uproar. Cleopatra becomes white with terror.) Hearken, you who must not be insulted. Go near enough to catch their words: you will find them bitterer than the tongue of Pothinus. (Loftily wrapping himself up in an impenetrable dignity.) Let the Queen of Egypt now give her orders for vengeance, and take her measures for defense; for she has renounced Caesar. (He turns to go.) (Act Ⅳ, 277-8)

シーザー:(極めて苦々しそうに)つまり、判決はみんな私に不利なようだな。

クレオパトラ:(激しく)いいですか、シーザー。このアレキサンドリア中で、私が過ちを犯したという人が一人でもいれば、私は宮殿の門のところで、奴隷の手で磔にされてもかまわないと誓います。

シーザー:全世界の中で、現在も、そしてこれからも、クレオパトラが誤りを犯したのだと知っている人があれば、その人は私のように世界を征服するか、磔になる人かのどちらかだろう。(町のどよめきが彼らの耳にとどく)あのどよめきが聞こえますか。宮殿の門をたたいている人々は、クレオパトラと同じように復讐や刺殺を信じている人たちです。クレオパトラは彼らの指導者を殺してしまった。だから今度は、彼らがクレオパトラを殺しても正しいことになる。もしそれを疑うならば、ここにいる4人の相談相手に聞いてみるといい。正義の名において(彼はその言葉に軽蔑をこめて力説する)彼らがクレオパトラを殺したとすれば、私が彼らを殺さないでいられるだろうか。そして今度は、彼らエジプト人たちに、彼らの祖国への侵略者として、私が殺されねばならないだろう。私が殺されれば、今度はローマが、息子や名誉のために復讐の仕方を世界に示すために、殺人者たちを殺さずにはいられないだろう。こうして歴史が終わるまで、正義と名誉と平和の名の下に絶えず殺戮が殺戮を生み、ついには神々が血に飽きて物わかりのよい人種を創り出すことになる。(激しい歓声。クレオパトラは恐怖で真っ青になる)よく聞きなさい。クレオパトラよ、恥ずかしめられてはならないと言ったね。彼らの言葉が聞こえるほどに近づいてごらん。ポサイナスの言葉よりもっと苦々しい言葉が聞こえるだろう。(気高く、犯し難い威厳につつまれて)今、エジプトの女王が復讐の命令を出し、防衛の手段をとりなさい。なぜなら、女王はシーザーを放棄したのだから。(彼は行こうとする)

 

 クレオパトラがルシウスにポサイナスを殺害させたことが正当なのか不当なのかについて、シーザーと他の者たちとでは大きく意見が違う。「正義と名誉と平和の名の下に」人類は多くの不幸を生んできた。その名のもとに人は復讐をやめないし、殺戮をやめない。平和をつくるためといって戦争を始める。このような理屈のもとに人類は行動しているが、シーザーはこの欺瞞を暴露する。それは、彼が「リアリスト」だからである21。シーザーの言ったことが、本当にクレオパトラを含む側近たちに理解されているとは言い難く、彼は明らかに疎外されている状況である。たとえば、ブリタナスは「裏切りや虚偽や不忠が罰せられなければ、社会は野獣に満ちた闘技場になるだろう」(“Were treachery, falsehood, and disloyalty left unpunished, society must become like an arena full of wild beasts.” Act Ⅳ, 277) と言う。既成道徳に縛られた者たちにとって、彼の言葉は説得力がある。「創造的進化論」の考え方にすれば、シーザーが言うようにどこかでこの復讐の連鎖を断ち切らなければならない。

シーザーは憎しみや愛という人間的な感情はもちあわせておらず、恐怖心から解放されており、裏切り者をすら解放する寛大さをもっている。復讐を嫌悪し、失策にもこだわることなく、常に知的に物事を運んでいる。このように俗人の物の考え方とシーザーの考え方の違いが、この劇の焦点である。既成道徳に縛られている者たちと、そこから自由である者との違いである。クレパトラのとった行動をめぐってシーザーがクレパトラの評価をしているこの場面が、シーザーがクレオパトラに施す「教育」の中で最も厳しく最も教育効果のあるものである。

シーザーが敵に対して寛大であるために、征服者としてはどうかという疑問が生じる。しかし、彼が聖者の資質をもちあわせていることに留意しなければならない。矛盾した行動はその聖者の面からきており、観客にとってもその行動は意外なものに映る。シーザーはメロドラマの世界からはみ出した人間である。シーザーは「リアリスト」であるので、メロドラマの素材となる愛、名誉、正義、復讐、憎しみから自由である。メロドラマの世界を支配する倫理観によってシーザーを縛りつけることはできない。シーザーは彼に対する後生の評価や名誉について何の執着もなく、運命を正面から見る22。現実をごまかしのないくもりのない目で見る「リアリスト」が現実をはっきりと見ることができるのは、創造的進化の目標という遠くの焦点を同時に見つめているからである。上にあるようにシーザーは「全世界の中で、現在も、そしてこれからも、クレオパトラが誤りを犯したのだと知っている人があれば、その人は私のように世界を征服するか、磔になる人かのどちらかだろう」と言う23。多くの人がクレオパトラの正当性を信じてシーザーが孤立するのは、世の中に「俗物」や「理想主義者」や「現実主義者」が多い中で、「現実主義者(リアリスト)」が本当に少ないからである。

G. K. チェスタトンChesterton (1874-1936) によると、シーザーが偉大で「リアリスト」であるのは、人を愛しているからではなく憎むことが少ないからであるとし、シーザーがショーと同じようにカルヴィン主義的であるからだと言う。

 

Caesar is superior to other men not because he loves more, but because he hates less. Caesar is magnanimous not because he is warm-hearted enough to pardon, but because he is not warm-hearted enough to avenge. There is no suggestion anywhere in the play that he is hiding any great genial purpose or powerful tenderness towards men….His primary and defiant preposition is the Calvinistic preposition: that the elect do not earn virtue, but possess it. The goodness of a man does not consist in trying to be good, but in being good. Julius Caesar prevails over other people by possessing more virtus than they; not by having striven or suffered or bought his virtue; not because he has struggled heroically, but because he is a hero…Caesar is not saved by works, or even by faith; he is saved because he is one of the elect. 24

シーザーが偉大であるのは、普通の人々より愛することがさらに深いからではなく、憎むことが少ないからである。なるほどシーザーは寛大だが、それは、彼が心温かくして人を許すことができるからではない。人に復讐しようとするほど心が熱くないからである。劇中のどこをみても、人間に対して彼が穏やかな目的とか強烈なやさしさを隠していると思われず、そのような兆候は見られない。・・・・ショーの第一の挑戦的な命題は、カルヴィン主義的命題である。すなわち、選民は徳を獲得するのではなく、元来所有しているのだという命題である。人間の善は、善であろうとする努力のうちにあるのではなく、そもそも善であることのうちにある。シーザーの場合、彼が他の人々を圧倒するのは、他の人々より多くの「ヴィルトゥス(徳)」を所有しているからであって、彼が努力したからでも、苦しんだからでも、あるいは徳を買ったからでもない。英雄的に苦闘したからでなく、要するに、英雄であったからである。・・・シーザーは偉業によって救われたのではなく、また、信仰によって救われたのでもなく、選民であるから救われるのである。

 

第1幕の冒頭にあったスフィンクスのように人間らしいところがないシーザーは、寛大になることができる。感情に振り回されないというシーザーの超人性がショーの戯曲のヒーローに最適なのである。チェスタトンによると、シーザーは慈悲深いけれども感情で熱くなることがないので、その慈悲は冷ややかなものである。シーザーは自分自身に対しても執着はなかった25。何事にも、さらに自分にさえも執着がないから、彼は「リアリスト」であることができるのである。

シーザーを描くショーがカルヴィン主義であることも見逃せない。チェスタトンはその著『ジョージ・バーナード・ショー』George Bernard Shaw において、「ピューリタンであること」”The Puritan”という章を設けている。チェスタトンのピューリタニズムの定義を見てみよう。

 

I should roughly define the first spirit in Puritanism thus. It was a refusal to contemplate God or goodness with anything lighter or milder than the most fierce concentration of the intellect. A Puritan meant originally a man whose mind had no holidays. To use his own favorite phrase, he would let no living thing come between him and his God. 26

ピューリタニズムの第一の精神はおおよそこのように定義することができよう。すなわちそれは、神を観想し善を観想するにあたって、最も熾烈なる知性の集中以外の一切を拒否するという信条である。この熾烈なる知性の集中以外は、いささかでもこれより軽く、あるいは穏やかなるものであってもならない。ピューリタンとは、もともと心に祝日をもたぬ者を意味した。ピューリタン自身の好んで用いた表現を借りて言うなら、自らと神との間に何物も介在させないのである。

 

ピューリタニズムはこのように神を観想するのに神と自分との間に一切の夾雑物を介在させることを許さない。神を観想するには、身体的なものや美的なものなどの余分なものをすべて取り除く。感情によって振り回されず、厳しく知性でもって神を讃えるのである。偶像や象徴の手を借りずに神を観想する彼らは、くもった目で見ずに「リアリスト」として現実を直視する。ショーのほとんどの戯曲は、ピューリタニズムの精神のもとに書かれている。とくに、『シーザーとクレオパトラ』と『悪魔の弟子』The Devil’s Disciple と『ブラスバウンド船長の改心』Captain Brassbound’s Conversion の3作は1冊にまとめられて、『ピューリタンのための劇3編』Three Plays for Puritans と銘打って出版されている。ショーはもちろんのこと、彼の分身であると言ってもよいシーザーが「リアリスト」であるのは、ピューリタンの特性に起因していると言える。

 

4.  「創造的進化」における「超人」

 以上、「高次の力」すなわち「生の力」を得るための条件を6項目にわたって見てきた。言い換えれば、それは「超人」になるための入り口である。「超人」は創造的進化でどのような役割を持っているのだろうか。

「創造的進化論」はそもそも生存競争と自然淘汰説を採るダーウィニズムに対抗して現れたものである。人間は、物欲だけで生きるのではなく、何か「高次の精神的なもの」で生きているはずだというのがショーの主張である。ショーは、人間の本来の健全な生活は精神的に豊かなものであると考える。「創造的進化論」は、新しい自己と新しい環境をつくりだす人間の「意志」“Will” の働きを重要視する。ところが、一部の人々は「意志」をもたず、自分でわざと自立の機会をのがしている。つまり,感覚的な満足と享楽的な人生を送ることだけに熱心な人は、精神的な向上が大切であることはわかってはいるものの、なかなかそのような努力をしない。怠惰な心持ちが自立を妨げている。「創造的進化論」は、自己が惰性に眠ることのないよう絶えず自己変革をし、高次の存在になることを目標に創造の情熱をたぎらして向上することにある。

創造的進化の「進化目的」は、物質主義的な生き方から脱却して精神性豊かな人生を送ることである。言い換えれば、自己実現である。創造的進化の構想は、『シーザーとクレオパトラ』から『人と超人』へ、そして『メトセラへ還れ』に至る作品群の中でまとまっていく。「超人」の特色を以下に箇条書きにしてみる。

 

①「進化目的」を意識し、高次の精神性を獲得して、「意志」に基づいて現実を個性的に力強く生きることによって自己実現へと向かう。

② 知性を伴った「生の力」をもっており、人類を幸福に導くという道徳的責務を内面的に強く感じている。

③ 人間的な正しさ、義務、名誉、正義、宗教、上品といったお仕着せの既成道徳を軽蔑する。

④ 現実の世界から逃避せずに自らの弱さにうちかち内部からわき起こる「意志」にしたがって、主体的に生きる強い人間である。

⑤ 人生の現実がたとえどんなに苦悩に満ちていても、それを自己の運命として積極的に引き受けて生きる。

⑥ 現実から虚飾をはぎとって、真実とは何かを見極める知性的な「心の目」を持つ。

 

 高次の自己意識をもった創造的進化の「超人」は、感覚的世界から拘束されずに自由な意識をもって他の生命と共感することができる。一方、感覚的な快楽ばかりを追求している俗人は、人生の本当の価値がわからない。物質主義的な生き方は、行き着くところ、破壊と戦争を生み出す。それに伴って残忍さと偽善が横行し、文明は滅亡の危機に瀕していく。ショーは、現代人が常に不安と疎外感につつまれ、生の全体性を見失っていることを危惧した。疎外感に満たされ煩悶している人は、窮するあまり脱出口を求めて自己憐憫に陥る。ショーはそのような消極的な弱い人生態度をひどく嫌悪し、「創造的進化論」による人間性の回復につとめた。『シーザーとクレパトラ』のシーザーは、「創造的進化論」の初期の段階であるだけに、シーザーは「自分のしたいことをする」偉大な英雄的人間にとどまっているが、まぎれもなく「創造的進化論」の「超人」である。

 

5.  おわりに

 ショーの「創造的進化論」とは,人間が運命に翻弄され偶然性によって適者生存といったものに振り回される受動的存在ではなく、「意志」をもち「進化目的」をめざしながら自分の運命を切り開く存在であることを述べたものである。ショーは物質主義的な世界観によって生命の活力を失いかけている世界に対し、生命主義的な「進化目的」に支えられた「創造的進化論」を戯曲の中に表現した。『シーザーとクレオパトラ』のシーザーは、いまだ明確な「進化目的」を意識してはおらず、ただ自分の超人性をあるがままに発揮しているにすぎない。そう考えるならば、「未発達の超人」という評価は正しいのかもしれない。「創造的進化論」が確立された『人と超人』や『メトセラへ還れ』と比べて、『シーザーとクレオパトラ』のシーザーは「初期の超人」である。しかしながら、シーザーは明らかに「高次の力」すなわち「生の力」に突き動かされている。シーザーは征服者であるとともに、自分の理想とする世界を探し求めていた。「神性の道」を進むという詩的想像力を持っている一方で、実務的能力があり、ショーが描く後の「超人」たちの先駆となっている。現実をしっかりと見据える「リアリスト」のシーザーは既成道徳から自由である。既成道徳から自由だといっても、その後の作品群の「超人」たちとちがって、彼は改革者ではない。すでに有徳で偉大な英雄であったので、「自分のしたいことをする」といった既成の規範を乗り越える存在である。復讐など既成道徳にからみつく感情にふりまわされない知性を持つ彼は、創造的進化の立場から、クレオパトラに統治者としての心構えを教育し、個人的な幸福よりも歴史の精神を尊ぶことを示唆した。

 人間的な感情に惑わされない「リアリスト」として、シーザーは公正な判断ができる人間である。彼がメロドラマにそぐわないのは、ショーと同様のカルヴィン主義者の資質をもっているからにほかならない。メロドラマ的なヒーローではないために、ヒロインのクレオパトラとのロマンスはない。クレオパトラは、シーザーによって教育されるものの、彼女は、「シーザー」対「シーザー的資質をもっていないもの」という区分けをすれば、後者の代表である。シーザーはクレオパトラを「教育」するが、彼女はシーザーを完全に理解することはできなかった。ショーはシーザーを『シーザーとクレパトラ』において活躍させることによって初期の段階とはいえ、「超人」の類型を明らかにして「創造的進化論」の萌芽とした。

 

 

  

 

(1)「創造的進化論」を「20世紀の宗教」とした部分は次の箇所である。「創造的進化はすでに宗教であり、今ではまちがいなく20世紀の宗教である」“Creative Evolution is already a religion, and is indeed now unmistakably the religion of the twentieth century.” Bernard Shaw, Back to Methuselah ( London: Constable, 1949), lXXVii.

(2) エリック・ベントリーEric Bentley は次のように言っている。「その劇(『シーザーとクレオパトラ』)はよくまとまった5幕でできあがっており、シーザーはショーの劇の主人公で、相手役はクレオパトラである。シーザーが先生でクレオパトラは生徒である」“The play [Caesar and Cleopatra] is a neat five-act structure in which Caesar is Shavian protagonist, Cleopatra the Shavian antagonist. Caesar is the teacher, Cleopatra the pupil. ” Eric Bentley, Bernard Shaw: 1856-1950. Amended ed. (New York: New Directions, 1957), 113.

(3) ヘーゲルの哲学では、客観的世界、すなわち社会や歴史も、絶対精神(理性)の自己実現の過程とされる。『法の哲学』(1821) はその立場から人間の社会規範を論じている。[ヘーゲル著 『法の哲学』 藤野渉, 赤沢正敏訳(東京 : 中央公論新社、2001年)]

(4) Bernard Shaw, The Perfect Wagnerite: a Commentary on the Niblung’s Ring (New York: Dover Publications, 1967), 11.

(5) Bernard Shaw, The Bodley Head Bernard Shaw Collected Plays with their Prefaces. Vol.2, (Act Ⅴ, 288) Caesar and Cleopatra についての引用はこの出版物からのものであり、以下、引用は(Act 幕数, 頁数)あるいは(Note to Caesar and Cleopatra, 頁数)とする。

(6) Bernard Shaw, The Quintessence of Ibsenism. Major Critical Essays (London: Penguin, 1956), 49-50.

(7) Ibid., 50.

(8) 創造的進化を描いたショーの戯曲『人と超人』の第3幕に登場する「現実主義者」ドン・ジュアンDon Juan は次のように言う。「私という人間はねえ、自分よりいいものが  考えられるうちは、そいつをこの世に作り出すか、せめてそいつのために地ならしを   していないと落ち着けない性分なんだ。これが私の人生の法則さ」“I tell you that as   long as I can conceive something better than myself I cannot be easy unless I am     striving to bring it into existence or clearing the way for it. That is the law of my     life.” [Bernard Shaw. Man and Superman (London: Penguin Books, 1990), 165]

(9) 『人と超人』第3幕では、シーザーが思い描いている世界は、ドン・ジュアンにとっての天国と同じである。ドン・ジュアンは天国のようすを次のように話す。「私が求めている天国には瞑想する他に喜びはない。だが生命が必死になって上昇しようとするのを助けるという仕事がある。考えてもごらん、生命がいかに空しく自らを使い果たしているか、またいかにしばしば障害を築き上げて、無知と盲目のために自らをほろぼしていることか。だから、頭脳がいるんだな。この生命という押さえられぬ力には。そうでないと、無知のために自らにさからうことになりかねない」“In the Heaven I seek, no other joy. But there is the work of helping Life in its struggle upward. Think of how it wastes and scatters itself, how it raises up obstacles to itself and destroys itself in its ignorance and blindness. It needs a brain, this irresistible force, lest in its ignorance it should resist itself.” (Man and Superman, 141)

(10) 『シーザーとクレオパトラ』では、シーザーがいわば教師役となってクレパトラに教育を施すという形になっている。しかしながら、クレパトラはいわば生徒代表で、ヒーローのシーザーが既成道徳にしがみついている一般の人々に彼の考え方を説くという枠組みである。エリック・ベントリーEric Bentley は次のように言っている。「『ピューリタンのための劇3編』Three Plays for Puritans において、私たちは、活力と自然的歴史を代表する主役が体制とメロドラマを代表する相手役の中にいるのを見る。“In each of the Three Plays for Puritans [The Devil’s Disciple, Caesar and Cleopatra, and Captain Brassbound’s Conversion] we see a protagonist who stands for vitality and natural history in the midst of a group, who stand for system and melodrama.” (Eric Bentley, Bernard Shaw, 108)

(11) ベルトルト・ブレヒトBertolt Brecht (1898-1956) は次のように述べている。「たぶんすべてのショー劇の登場人物がもっているあらゆる特徴は私たちの出来合いの連想を動揺させるのを楽しむというショーの態度に帰するであろう」“Probably every single feature of all of all Shaw’s characters can be attributed to his delight in dislocating our stock associations.”[Bertolt Brecht, Brecht on Theatre: the Development of an Aesthetic; Edited and Translated by John Willett ( London : Methuen, l964), 11]

(12) Bernard Shaw, The Wisdom of Bernard Shaw Being Passages from the Works of Bernard Shaw. (New York: Brentano's, 1913 ), 356.

(13)『人と超人』の第3幕で、ドン・ジュアンは「超人」の特質としての優しさを悪魔Devil からひやかされている。「超人の追求というやつには気をつけてください。そのままでいくと、人間的なものは何でも軽蔑することになります。人間にとっては、馬や犬や猫 はそれぞれただの生き物で、道徳とは縁がありませんからね。同様に、超人にとっては 男も女もただの生き物で、道徳とは縁がなくなるわけです。このドン・ジュアンが女に は親切に、男には礼儀正しくしたといっても、それはおたくのお嬢さんが飼っている猫 や犬に親切にしたようなものだ。そういう親切は、相手の魂に他とは違った人間らしさ を認めぬということです」“Beware of the pursuit of the Superhuman: it leads to an indiscriminate contempt for the Human. To a man, horses and dogs and cats are mere species, outside the moral world. Well, to the Superman, men and women are a mere species too, also outside the moral world. This Don Juan was kind to women and courteous to men as your daughter here was kind to her pet cats and dogs; but such kindness is a denial of the exclusively human character of the soul.”  (Man and Superman, 171-2)

(14) Bernard Shaw, Three Plays for Puritans  (London: Constable and Company, 1920), Preface xxix.

(15) ショーはシェイクスピアとは劇作のスタイルがちがうことを述べて、シェイクスピアの劇作的能力を大きく評価している。「しかし付け加えておかねばならぬが、私はシェイクスピアを楽しめない人を憐れむ。物語作者としてのシェイクスピアの才能、すなわち言葉の無意味かつ愚かな悪用もするが、明らかな奇跡的表現法や、彼のユーモア、奇人・変人に対する彼の感覚、あの生命的活力の源は天才の能力の背後で真に天才独自の素質となっている・・・彼の才能は効果的に私たちをたのしませることができる。その効果は彼がつくりあげた想像上の場面や人物が私たちの実生活よりも私たちにとって生々しいものとなるほどだ」“But I am bound to add that I pity the man who cannot enjoy Shakespear. His gift of telling a story; his enormous power over language, as conspicuous in his senseless and silly abuse of it as in his miracles of expression; his humour; his sense of idiosyncratic character; and his prodigious fund of that vital energy which is... the true differentiating property behind the faculties... of the man of genius enable him to entertain us so effectively that the imaginary scenes and people he has created become more real to us than our actual life.” [Bernard Shaw, Shaw on Shakespeare: an Anthology of Bernard Shaw's Writings on the Plays and Production of Shakespeare, Edited by Edwin Wilson (Harmondsworth: Penguin, 1969), 73]

(16) 『シーザーとクレオパトラ』第1幕のスフィンクスに語りかける場面で、自分の一部は神だ、と言っていることを指す。「私こそは、お前がその力を代表する運命そのものであって、スフィンクスよ、一部は  獣、一部は女、一部は神であり、私には人間的なものは何もないのだ」“I am he of whose genius you are the symbol: part brute, part woman, and part God---nothing of man in me at all. ” (Act Ⅰ, 182)

(17) Louis Crompton, Shaw the Dramatist (Lincoln: University of Nebraska Press, 1969), 63.

(18) Ibid., 63. “As Shaw puts it ‘Having virtue, he has no need of goodness.’ This is a conception Shaw discovered first in Wagner and then in Nietzsche.”

(19) Ibid., 68.

(20) Eric Bentley, Bernard Shaw, 64.

(21) 『人と超人』の第3幕で、ドン・ジュアンは、「地獄」(本当はこの世)では美徳の名のもとに悪が行われていると言う。「地獄こそは名誉、義務、正義をはじめとする7つの美徳のすみかです。地上のあらゆる悪はこういう名をかりて行われる」“Hell is the home of honor, duty, justice, and the rest of the seven deadly virtues. All the wickedness on earth is done in their name.” (Man and Superman, 127)

(22) シーザーは正面から運命を見据える。「希望を抱いたことのない者は絶望することもない。シーザーは、幸運であっても悪運であっても自分の運命を正面から見つめるのだ」“He who has never hoped can never despair. Caesar, in good or bad fortune, looks his fate in the face.” (Act Ⅳ, 280)

(23) このセリフを意識して、エリック・ベントリーは次のように言った。「メロドラマの世界に対して頑強に抵抗する2種類の人間がいる。それらは強すぎて攻撃できない人であり、謙虚すぎて気にならない人である。すなわち、征服者と聖者、つまり、シーザーとキリストである」“Against the world-view of melodrama only two kinds of me can    stand out, the man who is too strong to be attacked and the man who is too humble to mind, the conqueror and the saint, Caesar and Christ.” (Eric Bentley, Bernard Shaw, 115)

(24) G. K. Chesterton, George Bernard Shaw (New York: Hill and Wang, 1962), 115, 118.

(25) シーザーは自分の後生の評価や名声に対して執着がない。たとえば、『シーザーとクレオパトラ』において、セオドタスTheodotus が「歴史というものがなければ、あなたが死ねば、あなたの最下級の兵士と並べてられて埋められてしまうでしょう」“Without history, death will lay you beside your meanest soldier.” と言うのに対して、「どのみち葬られてしまうんだ。普通のやつよりもいい墓が欲しいなどと思わない」と答えている。“Death will do that in any case, I ask no better grave.” (ActⅡ, 219)

(26) G. K. Chesterton, George Bernard Shaw, 30.

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