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The Namesake におけるエグザイル

―― ユングのペルソナを手がかりに ――

 

                                                                                 森岡 稔

 

はじめに  

インド系アメリカ人のジュンパ・ラヒリJhumpa Lahiriの『その名にちなんで』The Namesake (2003) [1] は、2000年にピューリッツア賞Pulitzer Prizeを受賞した短編『病の通訳』Interpreter of Maladies (1999)のあとに書いたラヒリの初の長編である。[2] 『病の通訳』を含む短編集の評判は高く、デビュー作とは思えないほど完成されているという評価をすでに得ていた。そのあとの長編だけに、その作品の出来ばえを期待されていた。ラヒリは、名前をめぐって反発しあいながらも決してちぎれることのない親子の絆の物語を心に染みる筆致で描きあげた。その結果、『その名にちなんで』は鮮やかな描写とテーマを着実に追っていく物語の進め方によって、整合性のある無駄のないものに端正で清々しい期待通りの作品に仕上がった。本作は、熱い涙と豊かな感動に満たされた家族のドラマである。作者のジュンパ・ラヒリは面親ともカルカッタ出身のベンガル人であり、1967年にロンドンで生まれ幼少時に渡米し、ロードアイランド州で成長した。現在夫と息子とともにニューヨークに在住している。インドが1947年までイギリス領だったため他のアジア系のアメリカへの移民たちと比べると言葉の上ではさほど苦労はない。中国系・日系・韓国系アメリカ人作家は移民としての苦難を描くが、インド系アメリカ人は自由の国アメリカに同化するのにこだわりが少ないため、もっぱら自分たちのアイデンティティの変遷を描く。

『その名にちなんで』の中でラヒリは、いくつかの他者同士の出会いと理解を描く。親と子、兄と妹、インド系アメリカ人と白人系アメリカ人、インド系アメリカ人とインド人、男性と女性、夫と妻、一世と二世などさまざまな二項対立はお互いに他者である。他者同士は二人の間にある境界を越えて理解し合おうとして努力し、そして別れていく。このように自己を確立していくには他を必要とするが、『名前をくれた人』のような小説には、他者の要素として人種や民族の問題がからんでくる。人種や民族という他者問題は、さかんにポストコロニアル批評において検討されている。エスニックな「他者」という問題は、人種の混交するアメリカの文学を研究するのにもっとも重要なテーマの一つである。この小説の主人公の流動するアイデンティティ形成はインドとアメリカというエスニックな他者問題をめぐって展開している。『名前をくれた人』という小説は、民族のちがいのはざまでの中で家族の愛に支えられながら、本来の自分を発見する人間ドラマである。

 

1.「ゴーゴリ」という名前の由来

 小説の題名にある“The namesake”とは「名前をくれた人」という意味を表すが、「その名にちなんで」という意味ももちあわせている。人は誰でも名前を持っているが、ひとつひとつの名前には由来やドラマがある。この小説の場合、事情は少し特殊である。『名前をくれた人』の主人公の名前は「ゴーゴリ」Gogolである。彼は、故国インドを離れてアメリカのマサチューセッツのケンブリッジに生活の基盤を築いたベンガル人夫婦の間に生まれた男の子である。その名前は、かつて鉄道事故にあって奇跡的に父親のアショケ・ガングリーAshoke Ganguliの命を救った本のロシア人の著者ニコライ・ゴーゴリNikolai Gogol,の名にちなんで付けられた。アショケは、その名に宿る奇跡が子供の将来に限りない幸福をもたらすと信じて命名したのである。成長するにつれ、ゴーゴリは、アメリカに生まれ育ちながらベンガル人の伝統や習慣に従わなければならないことに反発を覚え、親から受け継がされたものの象徴としてのその奇妙な名前を重荷に感じるようになる。自らの出自を断ち切るように改名したゴーゴリは、やがていくつかの恋愛を経験する。自分とは正反対の環境で育ったニューヨーク生まれの白人女性や自分とよく似た境遇にあるベンガル人女性との恋愛である。そうした女性たちとの恋愛や結婚を通じて、また、愛する父親の突然の喪失を通して、彼は自分が背負ったベンガル人としてのルーツへの反発と、それでもなお断ち切れぬ思いとの間で揺れ動く。ゴーゴリの母親もインドからアメリカに来て30年以上も経つのにディアスポラの感覚を持ち続けている。『名前をくれた人』には、移民たちの心の機微が細やかに表現されている。

 

2.エグザイルとしてのアシマとアショケ

 1961年10月にコルカタの22歳の学生アショケは、ジャムシェドプールに住む失明して間もない祖父を訪ねるため、列車で旅に出た。道中彼は、親しくなった老人から「海外に出て見聞を広める旅をしなさい。あとで悔やむようなことにはならない」”See as much of the world as you can.” [3]とすめられる。その直後に、列車が転覆する。夜の闇の中に放り出されたアショケは、生存を確かめるため捜索する声を聞いたので必死になって声を出そうとしたが声がでない。列車の中で読んでいたニコライ・ゴーゴリの『外套』の1ページを事故の瞬間に握りしめていた。その本の切れ端が目印となり、転覆した車両の中から奇跡的に救出される。

3年後の1964年に、列車の中で出会った老人のアドヴァイスに従ってマサチューセッツ工科大学で工学を学んでいたアショケは、コルタカで親のすすめる相手と見合いをする。相手のアシマAshimaは、料理と英語が得意な美しい娘だった。家族や友達と離れ、冬には雪の降る街で暮らすのだが、一人でそんなことができるか、とアシマに問うアショケの父に対し彼女は「彼(アショケ)も一緒にいくのでしょう?」”Won’t he [Ashoke] be there?”と答える。(9) 数週間後、家族や親戚に祝福され、盛大な結婚式を挙げ、二人は、アメリカへと旅立つ。

ニューヨークでの新生活が始まり、アシマにとっては、お湯の沸かし方から買い物の仕方まで、日常のすべてを学ばなければならない。夫は大学院に籍があっても収入は少ない。優しい夫であるが、アシマが洗濯機でセーターを縮ませてしまったときは機嫌が悪くなった。最初の夫婦喧嘩は、それが原因だった。しかしそんな彼女を、アショケは不器用ながらも精一杯の優しさで支える。お互いをよく知り合う間もなく見合いで一緒になり、異国での生活を始めたばかりの二人はしだいに、お互いへの理解を深め夫婦の絆を強めていく。ベンガルとアメリカとの生活習慣のちがいは、アショケの方は先にアメリカに来ているので、それほどでもないにしても二人は異国での生活の中に外国人としての疎外感を持っている。そこで二人はその疎外感を癒すため、アメリカに住んでいる近所のベンガル人とのつきあいを盛んにする。ゴーゴリが生後6ヶ月になったとき、自宅にベンガル人たちが集まって、アンナプラサンannaprasanというこれから数え切れない程食べる命の糧となる米を流動食にかわって初めて食べさせる儀式が執り行われた。他のベンガル人たちも祖国をあとにした寂寥を感じているので、こういった儀式を通じて故郷とのつながりを確認しているのである。

アショケとアシマは、いわば故国喪失のエグザイルExileである。エグザイルとはもともと追放された者・亡命者・流浪の身を意味する言葉であるが、移民たちは何かの事情でアメリカにやってきて故国を去ってくるのだから、故国喪失者である。文芸批評家エドワード・サイード(1935-2003) は故国喪失者について次のように記している。

 

Exile is strangely compelling to think about but terrible to experience. It is the unhealable rift forced between a human being and a native place, between the self and its true home: its essential sadness can never be surmounted. And while it is true that literature and history contain heroic, romantic, glorious, even triumphant episodes in an exile’s life, these are no more than efforts meant to overcome the crippling sorrow of estrangement. The achievements of exile are permanently undermined by the loss of something left behind forever. [4]

故国喪失は、それについて考えると奇妙な魅力にとらわれるが、経験するとなると最悪である。人間とその人間が生まれ育った場所との間に、自己とその真の故郷との間にむりやり設けられた癒しがたい亀裂。その克服されることのない根源的な悲しみ。なるほど文学や歴史には、英雄的でロマンティックで栄光に満ち、勝ち誇ってさえいる故国喪失生活の逸話が数多く含まれるが、それらの逸話たちは、気の滅入る別離の悲しみを克服せんとする苦闘そのものに他ならない。故国喪失生活の中では、いかなることを達成しようとも、永遠にあとに残してきたものに対する喪失感によってそれは絶えず相殺される。[5]

 

 二人はアメリカにいても、インドへの思いは捨てきれずにいるので強い故国喪失感を覚えている。それゆえ他のベンガル人との交流を心から楽しむ。パーティーに集まった家の中で靴を脱いだり、インド料理を異国の地での食材の関係で完全ではないが、その味を再現しようとしたり、ベンガル語を気兼ねなく使ったりする時、インド系アメリカ人は故国喪失感によってもたらされた寂寥を癒す。アシマが故国との絆をつなぐ意味で大切にしているのは、アメリカに来てから知り合ったベンガル系の人たちの連絡先が載っている 3冊のアドレス帳である。

 

Having three separate address books makes her current task a bit complicated. But Ashima does not believe in crossing out names, or consolidating them into a single book. She prides herself on each entry in each volume, for together they form a record of all the Bengalis she and Ashoke have known over the years, all the people she has had the fortune to share rice with in a foreign land. [6]

アドレスが三冊に分かれているということで、彼女の今の作業が少し面倒になる。しかし、彼女は名前の削除をしようとも思わないし、1冊にまとめようとも思わない。彼女は、3冊のそれぞれに書いてある名前に誇らしいものを感じている。アショケと夫婦になってから何年にもわたって知り合ったベンガル系の知人たち全部の記録であるからだ。異国の地で御飯を一緒に食べあう運命となった人たちである。 [7]

インドから来た移民たちは、プロフェッショナルな職業をもつ中流・上流階級に属する知的な人々が多かった。したがって、彼らはアメリカには他の民族の人々よりもとけ込みやすいのだが、それでもアメリカにおいては「他者」である。移民たちは自由の国アメリカに入るのに国境をまたぎ検問所を通過するが、その境界は今度は新たな牢獄の壁となる。移民たちは、境界を越えた瞬間に、新しく入った国と故国の二重意識をもたなければならない。故国の意識をノスタルジックに保ち続けるためにも、ベンガル人たちはパーティーで集まることを好んだ。

エグザイルであることは、故国から完全に切り離されることではない。現代世界において時間的なことを言えば故国は実際にはそれほど遠くにあるわけではないが、だからといってすぐに戻るわけにもいかない。この不安定な中間的な生き方を感じながら生活するのがエグザイルである。二つの文化のはざまでどっちつかずの状態は、小説の冒頭で妊娠中のアシマが料理を作っている場面にも表されている。アシマは、インドのカルカッタの街頭や駅のホームで駄菓子として売っているものを、アメリカの食材を使って似たようなものを作ろうとした。だが、なかなか同じようなものはできなかった。アシマがいくら努力してもアメリカでは、純正のインド料理はつくれない。詩人で文芸評論家のT・S・エリオットT. S. Eliot (1888-1965) は移民たちのつくる文化が故国の文化と相違することを次のように説明する。

 

The people have taken with them only a part of the total culture….The culture which develops on the new soil must therefore be bafflingly alike and different from the parent culture.” [8]

移民たちは全体文化のわずか一部しか持って行けない。新たな土壌の上に発展した文化は、それゆえ、その親の文化に不可解なほど似ていてしかも異なるのだ.

 

 エグザイル状態にあった移民たちが「親の文化」に再び接すると、水を得た魚のように生き返ることは想像できる。次のシーンがそれである。ペンバートン・ロードPemberton Roadにある大学の電気工学助教授のアショケが研究休暇をもらうことができた。アショケが高校生の時である。研究休暇を利用して、ゴーゴリ、ゴーゴリとは6歳ちがいの妹ソニア、父アショケ、母アシマの4人家族が、8ヶ月間カルカッタの親戚を訪ねる旅行に行く。泊まり歩くインドの親戚の家でアショケとアシマは、アメリカにいる時とは全くちがってくつろいだ感じを見せる。

 

Gogol and Sonia know these people [relatives] but they do not feel close to them as their parents do. Within minutes, before their eyes Ashoke and Ashima slip into bolder, less complicated versions of themselves, their voices louder, their smiles wider, revealing a confidence Gogol and Sonia never see on Pemberton Road. “I’m scared, Goggles,” Sonia whispers to her brother in English, seeking his hand and refusing to let go. [9]

ゴーゴリやソニアはこれらの人々(親戚)を知っているが、彼らの両親ほどは親しいとは感じない。だが、二人の目の前で、アショケとアシマはみるみるうちに大胆になり、素直に生の姿をさらけだしていくようだ。しゃべり声は大きくなり、笑みが顔に広がる。ペンバートン・ロードの家では、子供たちに見せたことがないような自信にあふれていた。「こわいわ、ゴーグル」と、ソニアが兄に英語でささやいて、手をつなぎたがり、そのまま離さない。

 

 両親と子供たちの親戚たちに接する態度にかなりの差がある。アショケとアシマにとってはインドが故郷であり、アメリカは決して心からくつろぐところではない。アメリカにおいて、移民たちはやはり他者であり、彼らにとってアメリカは文化も習慣も違う外国なのである。一方、ゴーゴリやソニアには、インドこそ外国なのであり、インドの生活様式になかなかなじめない。アメリカ式の生活様式から抜け出ることができずに、二人はウォークマンを奪い合い、ハンバーガー、ペパローニ・ピザ、冷たいミルクが欲しいと言う。

 

3.ゴーゴリという名前とペルソナ

 話をゴーゴリが生まれたころにもどす。アシマがようやくアメリカの生活に慣れてきたころ、夫妻の前に元気な男の子が生まれる。二人とも、生まれてきた子供の名前は決めていなかった。インドの風習では、アシマの祖母が名前をつけてくれることになっており、名前が書かれた手紙が郵送されるのを待っていた。しかし、手紙はいっこうに届かない。産院から退院するには、出生証明書に名前が必要である。そこで、とりあえず息子をゴーゴリと名付ける。アショケにとって、子供の誕生は、列車事故に遭っても生き延びた奇跡に続く「2番目の奇跡」だった。そこで彼は、最初の奇跡をもたらしたニコライ・ゴーゴリの本にあやかって息子をゴーゴリと名付けた。

1971年にガングリー家は、郊外に一軒家を購入して転出する。そして、ゴーゴリが街の小学校に附属する幼稚園にあがるころ、ガングリー夫妻は息子の正式な名前をニキルNikhilに決める。ニキルという名は、ベンガル語でも「すべてを包む、まったき者」’he who is entire, encompassing all’ という意味であるし、ニコライ・ゴーゴリのニコライNikolaiと似ていると思われたからである。(56) ところが、幼いゴーゴリ本人は、自分が自分でなくなるような気がすると言ってニキルよりもゴーゴリの方がいいと主張する。結局、本人の意向により名前はゴーゴリのままとなった。なぜ、幼いゴーゴリは名前がそのままでよいと思ったのだろうか。

 深層心理学者カール・グスタフ・ユングCarl Gustav Jung (1875-1961) は、個人と社会との間に結ばれた一種の妥協の産物として「ペルソナ」という仮象を考えた。ペルソナとは、ギリシャ時代に役者がつけた仮面のことであり、役者が演ずる役をも意味した[10]。現代社会では仮面は「役割」という側面を持っている。「役割」は社会の一員として障害なく生きていくための公的な性格をもっている。「役割」に伴う行動は、社会的・一般的に通用する内容であることが期待される。「役割」は、「肩書き」とも言い換えることができる。人は名前を得て、肩書きを手に入れ、職務を演じて自分という人物を造型する。看護婦、警官、先生、野球選手、落語家、床屋は外面的にそれらしい服や行動をする。ペルソナは、他者との関係の中で自分を演じるようになってつくりあげていくものであるから、本能に忠実な幼少期にあったゴーゴリは、幼稚園ではペルソナをつくる必要性があまりない。したがって彼はゴーゴリという名前のままでよいと思ったのである。

ところが、ゴーゴリが成長するにつれペルソナが必要となり、自分のアイデンティティを築く上で最も大切な自分の名前の意味内容が大きな意味をもってくる。ゴーゴリが高校生になるころ転機がやってくる。ゴーゴリという名前が、忌まわしいものであることがわかり、ゴーゴリはニキルという名前に変えようと思うようになるのである。高校の授業でロシア作家のニコライ・ゴーゴリが強烈な変人だったことを聞かされ、自分の名前を恥じるようになった。名前に不満をもつ彼は、高校の卒業祝いに、父アショケから「ゴーゴリ短編集」を贈られても、少しもありがたいと思わない。ゴーゴリは自分の名前の由来を知らない。イエール大学で建築学を専攻する大学生になったのをきっかけにゴーゴリは役所でニキルに改名する。それを聞いたアショケは、「アメリカは何でも可能だ。好きなようにするがいい」”In America anything is possible. Do as you wish.” (100) と言っただけだった。

ゴーゴリは大学のあるニューヘイヴンNew Havenから実家まで時々は帰るものの、実家から離れた寮の暮らしと名前を変えたことで親から独立した気分になっていた。ゴーゴリが卒論の準備をしている大学4年の感謝祭の時期に、初めてアショケからゴーゴリの名前の由来を教えられる。ゴーゴリは次のようにアショケに尋ねる。「僕のことを考えるたびに、そのこと(列車事故)を考える?僕のせいで、その夜を思い出す?」“Is that what you think of when you think of me? Do I remind you of that night?” (124) それに対し、アショケは答える。「おまえを見て思い出すのは、事故よりあとの全部だ」“You remind me of everything that followed.”(124) アショケはゴーゴリへ愛を降りそそぐ。ゴーゴリの名前の由来を父親から聞かされて、ゴーゴリは改名したことに対し複雑な思いに駆られる。

外面的なペルソナとしての「ゴーゴリ」という名前はロシアの変人作家であったからゴーゴリはその名を忌避するようになったのであるが、父親から特別な名前の由来を聞いて名前の意味内容が変わってしまった。初対面や仕事上での関係で公的に用いるペルソナは、そもそも本心を出さないための仮面である。ところが、一般的に本人が自覚しているのはペルソナの奧にある内面的な自分の本質である。ゴーゴリという名前が個別的な父親の願いが込められているとわかった瞬間、ペルソナが内部から揺り動かされてしまった。

 ユングによると、自我意識がペルソナと同一化していたとしても、無意識的な自己、すなわち本来の個性が常に存在している。無意識的自己が完全に抑圧されてしまうことはなく、意識が定位づけられていても、無意識の側から個性的発展の働きかけがあり、さまざまな反応を引き起こす[11]。ゴーゴリは、名前の由来はそれまで打ち明けられていなかったが、確実に父親の息子に対する幸福への願いが無意識的自己に込められていたのだった。しかも、ゴーゴリという名前はベンガル的でもアメリカ的でもない。それは、エグザイルとしての移民の立場をとっていると考えられる。エグザイルは固着ではなく流動性を好み、新世界を構築しようという意気込みをもっている。エドワード・サイードはそういったエグザイルの事情を次のように述べる。

 

Much of the exile’s life is taken up with compensating for disorienting loss by creating a new world to rule….The exile’s new world, logically enough, is unnatural and its unreality resembles fiction. George Lukács, in Theory of the Novel, argued with compelling force that the novel, a literary form created out of the unreality of ambition and fantasy, is the form of “transcendental homelessness.” [12]

エグザイル生活の多くは底なしの喪失感の埋め合わせに、思いのままあやつれる新世界を創造することについやされる。・・・エグザイルの新世界は、論理的に見て当然のことだが、不自然な世界であり、その非現実性は、小説の世界に似ている。ジェルジ・ルカーチの『小説の理論』における説得力のある議論によれば、小説は、野望と空想からなる非現実的なものから創造された文学形式である以上、「超越的故郷喪失」形式そのものである。[13]

 

 ゴーゴリという名前は脱領域的な性質をもっている。アショケ、アシマ、そしてゴーゴリも、移民として新しい世界を切り開いていかなければならない。アショケは生まれたばかりの息子にそれを意識して名づけたわけではないが、奇跡をもたらした名前とともにアメリカでのエグザイルとしての新生活を始めなければならない家族の立場が息子の名前に反映したにちがいない。名前ばかりでなく、家族がエグザイルとしての立場にいて新しい世界を築いていく覚悟を幼いゴーゴリに教えようとしたシーンがある。ある寒い日曜日の午後に家族が海へドライブしたときの話しである。防波堤の近くで車を止め、寒いので暖房のためにエンジンをかけたままにしておいた。防波堤の石が連なっており、その先は細い三日月の砂地になっていた。アシマとソニアを残し、アショケと幼いゴーゴリが防波堤の先の方の灯台のあるところまで行った。そのとき、アショケはゴーゴリに言う。「覚えておけよ。おれたち二人で遠くへ行ったんだ。もう行きようがなくなるまで行ったんだからな」 “Remember that you and I made this journey, that we went together to a place where there was nowhere left to go.” (187) ゴーゴリが移民として孤独感を味わうこともあるだろうが、しっかり生きていくことの覚悟を諭したにちがいない。ゴーゴリは父親の言葉をしっかりと心に刻んだ。

 

3.移民としての他者

 1994年にニューヨークの住人となったゴーゴリは、コロンビア大学で建築の大学院課程を修了し、ミッドタウンの建築事務所に勤めている。マンハッタンのアパートに住み、恋人のマクシーンMaxineと自由に愛し合う日々を謳歌している。彼女は、コロンビア大学のバーナード・カレッジで美術史を専攻し、美術出版社で編集部の次長をしている。ゴーゴリはマクシーンの家を訪問すると、その豪邸ぶりに驚いてしまう。驚いたのは建物だけではない。生活習慣がインド風の雑多な趣とは全くちがい、アメリカ社会の典型的な富裕な家庭環境からくる余裕が感じられるのだ。マクシーンの父親のジェラルドGeraldは法律家であり、母親のリディアLydiaは、メトロポリタン美術館で織物関係の学芸員をしている。二人はゴーゴリがイエール大学とコロンビア大学院の出身だという経歴に感心する。食事中の会話で、リディアはゴーゴリの地中海的風貌を見ながら「イタリア人としても通りそうね」“You could be Italian.” (134) と言う。意識的ではないにしても彼をインド系アメリカ人としてではない見方をする。さらにリディアやジェラルドは富裕さからくる鈍感からか、ゴ-ゴリには失礼としか思えないような発言を続ける。ゴーゴリのユーモアが緊張感を和らげている。

 

“What’s Calcutta like? Is it beautiful?” The question surprises him. He is accustomed to people asking about the poverty, about the beggars and the heat. “Parts of it are beautiful,” he tells her. “There’s a lot of lovely Victorian architecture left over from the British. But most of it’s decaying.” “That sounds like Venice,” Gerald says. “Are there canals?” “Only during monsoons. That’s when the streets flood. I guess that’s the closest it comes to resembling Venic.”

「カルカッタって、どんな町かしら。美しい?」この質問は予想外だ。ふだん何か言われるとしたら、貧困、物乞い、暑さ、といったようなことである。「そういうところもあります。イギリス統治時代の建築で、ヴィクトリア様式のいいものが残っていますから。でも大半の地区は、いまにも崩れそうですよ」「というとヴェネチアのようだね」と、ジェラルドが言う。「運河はあるのかな?」「モンスーンの季節にはできますね。街路が洪水になります。そういうときはヴェネチアに近いと言えるでしょう」

 

 ゴーゴリがユーモアを発揮できたのも、あまりにも富裕さからくるインドの実状に対する無知からくる彼らの発言だと認識したからであって、差別意識をもった発言だと感じたならば、このようにはいかない。しかし、ゴーゴリは差別を感じなかったもののライフスタイルの違いは強烈に味わった。その後、ゴーゴリはマクシーンとの交際の中で豊かな生活に慣れ親しんでいく。ゴーゴリは実家でマクシーンをアショケとアシマに会わせることもしたが、少し背伸びをした感じである。ゴーゴリは実家からそそくさと去り、その足でマクシーンの家族と湖岸へ出て過ごす有様である。ニキルという名とともに、ゴーゴリは過去の生活を捨ててしまったかのようである。ペルソナが変わってしまったのである。コロンビア大学で建築の大学院課程を修了し、ミッドタウンの建築事務所に勤め、マンハッタンのアパートに住み、マクシーンの家族に入りびたる生活圏の中でつくるペルソナにベンガル色が入る余地がない。このような生活を続ける中で、アショケが転勤先の大学があるクリーヴランド郊外において心臓発作で急死するという訃報が届く。ゴーゴリは実家でインド式に喪に服す。実家を冷たく捨てたようになっていたゴーゴリは反省し、マクシーンとも別れてしまう。ゴーゴリは相変わらず、ニューヨークに住んでいるがアシュマを時々慰めるために実家へ立ち寄る。そうしているうちに、ゴーゴリはアシュマに同じインド系アメリカ人のモウシュミ・マズムダルMoushumi Mazoomdarと見合いをしてみないかと誘われる。そして、ゴーゴリがモウシュミとよく付き合ってみると、彼女はエグザイルとしての特質を備えた女性だったのである。しかし、そのエグザイルはアシュマ一家とは種類が異なったエグザイルであり、自由を獲得するために自分で選びとったエグザイルである。

 

4.エグザイルの女性、モウシュミ

 モウシュミはブラウン大学を卒業し、パリで暮らし今はニューヨーク大学でフランス文学の博士号を取得する一歩手前にいるという。彼女はブラウン大学で、最初化学者である父親の意向で化学を専攻したのだが、親に黙ってもう一つの専攻、フランス語を勉強した。これが彼女の親に対する反抗であった。アメリカでもインドでもないものとして彼女はフランス語に接近したのである。これは、ゴーゴリという名前が脱領域的であったのと同じ位置にある。4年間のフランス語の勉強の成果でパリに移り、多くの男性遍歴を経験する。彼女がニューヨークにもどってきたのも、結婚しそうな相手がたまたまパリに出張中のニューヨークの投資会社の人間だったからで、結局は彼がインドの悪口を陰で言っているのをモウシュミが聞きつけ、彼女が気を悪くして破談になった。破談になったのも、彼女のようなエグザイルの自然の成り行きで基本的にエグザイルは束縛を嫌う。エドワード・サイードは次のように説明する。

 

No matter how well they may do, exiles are always eccentrics who feel their difference as a kind of orphanhood. Anyone who is really homeless regards the habit of seeing estrangement in everything modern as an affectation, a display of modish attitudes. Clutching difference like a weapon to be used with stiffened will, the exile jealously insists on his or her right t refuse to belong. (182)

エグザイルはどれほど羽振りがよく見えようとも、常にみずからの差異をある種の孤児状態として感ずる変人なのである。真に故郷を喪失した者なら誰もが、現代的な事象のなかに疎外感を見いだす習慣を、気取りあるいは流行の姿勢の誇示と見ている。差異を強固な意志によって使いこなされる武器のごとく握りしめ、エグザイルは所属を拒む権利にあくまでも固執する。(187)

   

 ゴーゴリがモウシュミと結婚して、彼女がソルボンヌ大学での学会で発表するよう招聘されたとき、ゴーゴリはパリへ一緒に行く。そのときも、彼女はエグザイルぶりを発揮してゴーゴリを感心させている。ゴーゴリは名前にこだわって、ニキルになるときも一大決心であったのに、モウシュミはペルソナというものを複数持っている。どんな顔にもなれるのである。パリでは彼女のようなエグザイルが似合うようで、その証拠に彼女は、「ムーシュミ」「ムース」などときちんと呼ばれたことがないという。自分で自由な生き方を選び取る戦略的な種類のエグザイルは、上にあるように所属を拒んで、差異を魅力のひとつにして、疎外感を自らのファッションにまでする。彼女のようにそのようなエグザイルになりきれないゴーゴリは、彼女を客観的に次のように一種の羨望感を持ちながら見る。

 

She both fits in perfectly yet remains slightly novel. Here Moushumi had reinvented herself, without misgivings, without guilt. He admires her, even resents her a little, for having moved to another country and made a separate life. He realizes that this is what their parents had done in America. What he, in all likelihood, will never do. (233)

モウシュミは完全にとけこんでいるようでいて、どこか新奇な要素も残している。そういう存在に自分を改造した。ここでは何の遠慮もなく悪びれずに変わっていけた。たしかに立派なことだと思う。小憎たらしいことでもある。外国へ出て、独立した生活を作り上げた。そう言えば、アメリカへ渡った両親も、同じようなことをしたわけだ。どう考えても自分の身には起こりそうもないが。

 

 モウシュミのような積極的なエグザイルも、ゴーゴリの両親のようなディアスポラ的エグザイルも外国生活の中で環境に同化していく心構えは変わらない。新しい関係を築いていくには、自分を変えていくしかないが、変わらないものも残しておく。それが、究極のアイデンティティであるとも言え、差異は他のものには新奇なものに見えるかもしれないが、大切に残していくというスタイルをとるのである。エグザイルは外国における寂寥を嘆いてばかりいることにとどまっていてはならず、真摯な主体のありようを探っていくべきなのである。ゴーゴリがモウシュミをうらやましいと思うのは、自分を変えていく実践的なたくましさである。どのようにしたら自分を変容させていくことができるのか。それは、ペルソナをいったん解消することである。ペルソナに自我を支配されてしまうと、自我肥大を起こし自己を硬直させてしまう場合もある。またペルソナにかかわる部分で失敗や躓きがあると一挙に自信をなくし、自己を全面的に否定することになりかねない。つまり、ペルソナに支配されてしまうと本来の自己を見失ってしまうのである。そうならないためにも、時には自分のペルソナについて反省し仮面をはずすことによって、本来の自己を知ることが肝要である。いったん古いペルソナを解消し新しくペルソナをつくりかえていく際に注意すべき点がある。ユングは次のように述べる。

 

I regard the loss of balance as purposive, since it replaces a defective consciousness by the automatic and instinctive activity of the unconscious, which is aiming all the time at the creation of a new balance and will moreover achieve this aim, provided that the conscious mind is capable of assimilating the contents produced by the unconscious, i.e., of understanding and digesting them.  [14]

私は平衡喪失が合目的なものであると考えている。というのは、それによって機能をうしなった意識が、無意識の自動的本能活動によってとって代わられ、その無意識の活動が新たな平衡の確立をめざし、また実際にそれを果たすからである。もとより、意識が無意識によって産み出された内容を同化できること、つまり、それを理解し、消化することができることが前提である。(64)

 

 意識と無意識の平衡をいったん喪失すると意識が緩んで、無意識が活発に働きだす。すると、無意識が新しい平衡を確立しようとし、意識がしっかりと無意識の意味内容をつかみとることが大切だと、ユングは注意を促している。

 モウシュミはパリで古いペルソナをはぎとって自由になった。古いペルソナは、束縛となって、エグザイルにとっては障壁や重荷となってくる。エドワード・サイードは、この状況を次のように説明する。次にある「境界や障壁」を古いペルソナと置き換えて考えるとよくわかる。

 

The exile knows that in a secular and contingent world, homes are always provisional. Borders and barriers, which enclose us within the safety of familiar territory, can also become prisons, and are often defended beyond reason or necessity. Exiles cross borders, break barriers of thought and experience. (185)

エグザイルは知っている。世俗の偶発世界では、故郷=家庭は一時的なものであることを。境界や障壁は、馴れ親しんだ領域という安全圏に私たちを閉じこめるものであったが、牢獄にもなりうるし、しばしば、理由や必然性などおかまいなしに、守り通さねばならないものとなる。エグザイルは境界を横断する。思考と経験との壁をこわす。(191)

 

 モウシュミに限らず、ゴーゴリの両親もアメリカでの新しい環境のもとで新しいペルソナづくりをしようと懸命だった。ベンガル人を招いてパーティをしていたのは、ベンガル人に対する古いペルソナを温存しながら、急激なペルソナの変化を避けて、新しい環境でのペルソナづくりをするためにバランスをとっていたのである。

古いペルソナをうまくはずしながら、本来の自己に従うモウシュミであったが、束縛を嫌うエグザイルの性格を充分すぎるほど持っていた彼女は、自分の欲望に抵抗できず不倫をしてしまう。ゴーゴリとの結婚生活は所詮、モウシュミにとって故郷と同様、束縛にすぎなかったのである。不倫はゴーゴリの知るところとなり、二人は別れる。

 

5.未亡人のアシマの対位法的意識をもった生き方

2 000年のクリスマスは、アシマがベンバートン・ロードの家に人を招く最後となった。そして彼女は27年ほどの間住み続けた家を人手に渡すことに決めた。インドで半年アメリカで半年という生活をするためである。インドでは弟を頼り、アメリカでは北東部にいる息子や娘、同胞の親友などの家に滞在するつもりである。もともとアシマという名前は「果てしない」“ limitless, without borders” (26)という意味を表している。アシマは、「名が体をあらわすがごとく、国境もなく故郷もなく、どこにともなく暮らしているようになるだろう」“True to the meaning of her name, she will be without borders, without a home of her own, a resident everywhere and nowhere.” (276) アシマは、本格的なエグザイルとして生きていく決心をしたのである。

カルカッタは彼女にとってすでに「かつては故郷であり、いまでは異国と言えば言えるような都市」“the city that was once home and is now in its own way foreign.” (278) に変わってしまっている。なつかしかったインドであったが、今度はアメリカでの生活がアシマにとってなつかしく思われる。エグザイルとは、これまで見てきたように、脱領域的で自分の故郷を含めて世界のあらゆる地域を外国の地であるように感じながら生きていく者のことである。アシマは夫の死後、エグザイル状態の中でみずからの民族アイデンティを痛ましくも果敢に再構築していこうとする。アシマは、これまでもアショケとともに移民として、故国とアメリカにまたがる流動的アイデンティを形成してきた。未亡人となったアシマは、それまでのエグザイル状態をもう一段階推し進めて、生まれ故郷のインドと夫と子供たちと過ごしたアメリカというふたつのものを同時に意識するという、音楽用語で言えば対位法的意識を形成した[15]。アシマの対位法的意識がエグザイルの特質であることをエドワード・サイードは次のように説明する。

 

For an exile, habits of life, expression, or activity in the new environment inevitably occur against the memory of these things in another environment. Thus both the new and the old environments are vivid, actual, occurring together contrapuntally. There is a unique pleasure in this sort of apprehension, especially if the exile is conscious of other contrapuntal juxtapositions that diminish orthodox judgment and elevate appreciative sympathy. There is also a particular sense of achievement in acting as if one were at home wherever one happens to be. (186)

エグザイルにとって、新しい環境における生活習慣や表現や活動は、別の環境に置き去りにしてきたものの記憶を背景として生じる。したがって、新しい環境における生活習慣や活動と古い環境はともに、生々しく、現実的で、対位法的に同時に生起する。この種の把握法には独自の喜びがともなう。とりわけエグザイルであるからこそ、オーソドックスな判断方法を減じて、相互理解的共感を高めるような、そうした対位法的並列も意識できるのである。たまたまいる場所であれば、それがどこでもくつろげる、そんなふうに行動することで、独特の達成感覚も生まれる。

 

 アシマはノマド的で脱中心化された対位法的生き方をしようとしている。彼女がアメリカに来てから33年経った。彼女は、アメリカでの新しい生活においても、インドの生活風習を捨てることなく髪の分け目に赤い色をつけ、サリーを着て腕輪をして、インド料理を作った。一方で、アメリカの生活に慣れると、自分で車を運転し、図書館にパートにも出るようになった。夫の死ぬ前と後で、エグザイルであることにはちがいないが、死んだあとでは、彼女にとってエグザイルの意味内容が変わってきた。アシマは対位法的並列を意識することによって、インドとアメリカでのどちらにいてもくつろげるであろう。彼女はノマド的で脱中心化したエグザイルとしての生き方を決意したのである。

 

おわりに

インドで見合い結婚をしたアシマとアショケが、移住先のアメリカで34年という長い年月をかけて夫婦の愛を熟成させてきた。アシマはアメリカでの新生活に期待と不安で胸をいっぱいにしながら、懸命に頑張る子供を育てながらアショケとともに家族を支えていく。アショケは、息子の誕生を自分の列車事故で救出された奇跡の次の奇跡としてとらえた。ゴーゴリという名前は、初めからアメリカにもインドにも属さないエグザイル的なものだったのである。アメリカ生まれのゴーゴリは、故郷の慣習を重んじる両親との間において、インド的な風習とアメリカとのギャップを感じながら成長する。アショケとアシマはエグザイルとしてアメリカの生活に慣れようとしていた。このように定着ではなく、エグザイルの移民生活をする両親への一種の反抗として、ゴーゴリは高校卒業を機にニキルというアメリカ的な名前に改めたり、ブロンドのマクシーンという恋人を実家に連れてきて、インドとの絆を断ち切ろうとした。そんなゴーゴリが、父の死という人生の試練に直面し、両親から受けた愛に気付き、両親の生き方に批判的だった自分を反省する。移民の家族であることを受け入れようとするゴーゴリは同じインド系アメリカ人のモウシュミと結婚する。モウシュミは行動原理として積極的にエグザイルを選び取り、ゴーゴリのように名前というペルソナにこだわらない女性であった。しかし、束縛を嫌うエグザイルの性質がわざわいして二人は別れる。アシュマはディアスポラ的エグザイルであったが夫の死後、アメリカとインドというふたつの国にまたがって生きる対位法的意識をもったエグザイルに目覚め、民族的アイデンティティを再構築する決意をした。アシュマやゴーゴリは、偶発的な出来事の影響を受けながらも、移民としてのアイデンティティを流動的に変えてたくましく生きていく。エグザイルとしての脱領域的生き方が、相互理解的な共感力を高めていくのではないかということをこの小説は示唆している。

 

 

 

 

 

[1] Jhumpa Lahiri.The namesake (Boston : Houghton Mifflin, 2003)

[2] ジュンパ・ラヒリはこの作品でO・ヘンリー賞、PEN/ヘミングウェイ賞、ニューヨーカー新人賞ほかも受賞した。

[3] he namesake,16

[4] Edward W. Said, Reflections on exile and other literary and cultural essays ( London : Granta Books, 2001), p.173.

[5]  以下の訳書を参照した。エドワード・W・サイード、『故国喪失についての省察』大橋洋一訳、みすず書房, 2006年。174頁。

[6] he namesake, 159-60

[7] he namesake, 193-94

[8] Thomas Stearns Eliot, Notes towards the Definition of Culture (London : Faber, 1948, 1962) p.64.

 

[9] he namesake, 81-82

[10] 「非常な苦労の末にようやく実現される、この集合的心の一切片を、私はペルソナと名づけた。ペルソナという言葉は、実際それにふさわしい表現である。というのは、ペルソナがもともと、役者のつける仮面で、役者が演ずる役を表わしているからだ」

[11] カール・グスタフ・ユング『自我と無意識』松代洋一・渡辺学訳 思索社、p.58.

[12] Edward W. Said, Reflections on exile and other literary and cultural essays ( London : Granta Books, 2001), p.181.

[13] エドワード・W・サイード、『故国喪失についての省察』大橋洋一訳、みすず書房, 2006年。186頁。

[14] C. G. Jung.  Two Essays on Analytical Psychology. Translated by R. F.C. Hull (London: Routledge & Kegan Paul), p.162.

[15] エドワード・サイードの『故国喪失についての省察1』(p.192-3)の中で、エグザイルの対位法的意識について説明している。「ほとんどの人間は原則として、ひとつの文化、ひとつの環境、ひとつの故郷しか意識していない。エグザイルは少なくともふたつのものを意識する。そしてこのヴィジョンの複数性から生まれるのが、同時存在という次元に対する意識――音楽から用語を借りるなら――対位法的意識なのだ」

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