
Pygmalion における創造的進化論
森岡 稔
はじめに
George Bernard Shaw(1856~1950) は、1884年にフェビアン協会Fabian Societyに参加し、社会変革をしなければならないという情熱に駆られた。すでに小説や音楽評論を書いていた彼は本格的に演劇を通して社会のもつ矛盾や害悪を痛烈に批判していく。彼は幻想を抱かず現実を直視する目を持ち、独特の「創造的進化論」“Creative Evolution”という思想を発展させ、人間の「生命力」“Life Force” がどのように現実に反映されているのかを演劇に表現した。『ピグマリオン』Pygmalion (1913)は、彼の創造的進化論を背景にし、そのころの人々が、科学の進歩という機械主義的な世界観を盲目的に信じているために、自分の意志で運命を切り拓く主体的な生き方を失っていることを気付かせようとした。
この論考は、My Fair Lady 1の原作であるPygmalion 2 において創造的進化論がどのように表象されているのかを追求しようというものである。Pygmalion は単なるシンデレラ物語ではないし、下層階級が中流階級になるための方策を授けるものでもない。そこでは、人間の本来的生き方が示唆されている。Pygmalion においてショーは、ヘンリー・ヒギンズHenry Higgins教授が、人間を科学的・機械的に扱うのに対し、花売り娘から自立した女性に成長した女主人公のイライザ・ドゥーリトルEliza Doolittle が生きた人間として反発するというのがこの劇の骨子である。それぞれのペルソナや役割をもっている人間は、機械的に分類されうるが、だからといって精神的・生命的な人格をないがしろにすることはできない。ショーはイライザを通して人間には主体的に生きる意志が大切であることを示そうとした。
機械論は、原因と結果を追求するあまり、偶然で確率論的な物事の判断をする。そこでは人間も部品を寄せ集めたロボットのようなものにすぎない。機械論に基づいた決定論的な世界では、運命に対して人間の意志は働かず、人間が果敢に立ち向かい切りひらいていく姿が望めない。機械論においては、人間はいかにも受動的な人間のあり方となってしまうのである。イライザはまさにヒギンズによって作られたロボットであったのだが、イライザの内奥に存する精神が、言い換えれば “Life Force” が頭をもたげていくのであった。Pygmalionという作品の中に創造的進化論が色濃く影を落としていることに注目したい。
1 ピグマリオンの背景にある創造的進化論
まず、作品のPygmalion というタイトルの由来を述べておかなければならない。『ピグマリオン』Pygmalion という題名は、ギリシア神話の変身物語から取られている。有能な彫刻家ピグマリオンPygmalionは、理想とする女性が現実的にいないので、人生の伴侶とする女性を見つけることができなかった。ところが、ある日、とても優美ですばらしく理想的な女性の大理石像を完成させると、彼はそれをまるで生きた女性のように愛した。そして、彼はその大理石の像を本当の人間に変えてくれるようギリシアの神々に祈る。その願いを美の女神アフロディテが聞き入れ、その大理石像に霊感を与えて、生きた本物の人間ガラテアGalateaという名前の女性にする。もっともイライザの場合、教育したのはヒギンズであったが、外から与えられる霊感にあたるものは、イライザ自身の内奥にある“Life Force”である。
ギリシア神話では、結果として、ピグマリオンとガラテアは結ばれるが、Pygmalionにおいて、彫刻家ピグマリオンにあたるヒギンズは、ガラテアにあたるイライザとは結ばれない。ヒギンズは、制度としての結婚が精神の堕落をもたらし、ひいては、女性の奴隷化に結び付くと考える独身主義者である。また、自立心ある女性となったイライザは、ヒギンズに対して強い批判力を持つ。イライザは科学を追求するあまり人間の心の機微に鈍感なヒギンズの自己中心性を容赦なく指摘する。ヒギンズとイライザが結ばれないのは、このエゴイストであるヒギンズがいわば罰せられる形でイライザにふられたのだというのが従来の解釈であった。ところが、創造的進化論がこのPygmalionの背景にあるという観点をもつと作品がかなりちがう様相を呈してくる。そこには二つの視点がある。一つ目は、ヒギンズが単なるエゴイストではなく男女の恋愛を超越する「超人」の性格をもっていて、恋愛よりも人間の慈愛を重視しているということ。それが証拠に、ヒギンズは結婚という制度を俗物的だと軽蔑しているが、打算のない純粋な人間の情愛については理解を示している3。二つ目は、イライザも劇の終わりの段階で、男女の恋愛を超越した「超人」の境地に達し、人間の慈愛を理解する人間となっていてヒギンズを恋愛の対象として見ていないこと。この二つの視点で見ると、ヒギンズとイライザが結ばれる可能性はまずない。
ショーは、刺激と反応から成り立つ動物的生活から脱却し、高度な自己意識をもつ精神生活へと脱皮することをめざした 4。創造的進化は、“Life Force” を原動力とし、意志 “will” が個人の内部に宿るとき、個人は進化目的に目覚めながら物質に依存しない自己意識の発展をめざす存在となる。「超人」はそのような存在である。ショーはそれこそが高貴な人生だとする。Pygmalionにおいて、イライザはしだいに意志をもち、自立心に目覚めた人間になっていく。それは礼儀作法・装身具という外面的な品格が洗練されたものになっていくことのみにとどまらず、自己変革を遂げ精神的に高貴な存在になっていく有様を示している 5。創造的に生きるということは、生命的かつ精神的に向上しながら生きていくことに他ならない。
2 ヒギンズの教育
第二幕の舞台は、ウィンポール街にあるヒギンズの家である。ヒギンズは四十歳くらいのエネルギッシュな科学者タイプの男である。だが、科学の研究対象に猛烈な興味をもつあまり、自分でも他人でもその感情はいっさいかまわないという面を持っている。熱中すると他のものが目に入らない子供っぽさがある。
ヒギンズの家に飛び込んできたイライザについて家事をとりしきるピアス夫人は次のような心配をする。海岸で石ころでも拾うみたいに若い女性を拾ってきてはいけない。結婚しているかもしれないし、親がいるかもしれない。どんな条件でイライザをここに置くのか、賃金は払うのか、上品な話し方を教え終わったらイライザはどうなるのか、ピアス夫人がこのような心配をヒギンズに投げかけると、彼は「そんなことは勝手にすればいい」“it will be her own business”(44)と言って無責任な返事をする。すでに彼の頭の中では、イライザは研究対象である。一方、ピアス夫人はイライザをあくまでも一人の女性として扱っている。イライザが貴婦人になれるかどうかの賭をしたピッカリング大佐でさえも、ピアス夫人と同じようにイライザを一人の女性として認めている。
ヒギンズの教え方は教育というよりは調教である。いつの間にか、怒り役がヒギンズ、なだめ役がピッカリング大佐といった関係ができあがる。イライザにとって試練が数ヶ月間続く。そしてある日ヒギンズは、母親のヒギンズ夫人に、イライザに会って欲しいと言う。ヒギンズは、園遊会にイライザを出す前に予行演習として夫人の面会日を利用しようとしているのだ。それとは知らずに、息子のヘンリーから娘と会って欲しいと言われたヒギンズ夫人は、とうとう息子も若い娘を見つけてきたかと喜ぶ。
ヒギンズ夫人との会話で、天気の話になったときイライザは気象情報を流すような杓子定規の話し方をする有名なシーンがある。
LIZA. The shallow depression in the west of these islands is likely to move slowly in an easterly direction. There are no indications of any great change in the barometrical situation. (75)
ブリテン島西部にある弱い低気圧が、ゆっくりと東部に向かって移動しているようであります。気圧状況には大きな変化は見あたりません。
イライザの話し方は、教えられたとおりの「こわばった」つくりものの言い方である。ショーの劇作家としての腕が冴える。「こわばった」動作がこっけいに見えることについて、バーナード・ショー研究者市川又彦は、その著書の中で次のように述べている。
ベルクソンはまた、「笑い」のなかで、物が滑稽に見えるのは、多くの場合、それがメカニカルな働きをしている時だ、という意味のことをいっている。人間が長い間の因習のためばかりに働くようになって、なんら自由な意志の閃きがなくなった場合には、その人間、或いはそれによって構成している社会は、いわば生命のない操り人形のようなもので、ただメカニカルな運動をしているにすぎぬから、そこに一種のおかし味を伴うのである。ショーの作は、ベルクソンのこの説を具象化した一つの渾然たる芸術作品といえる 6。
イライザはことさらHの音を発音し(下層階級ではHの音を落としていた)、天気の話をするにもぎこちなく、意志の働きが感じられない。自分の頭で考えて発言し、行動しないから変なのである。アンリ・ベルクソンHenri Bergson (1859-1941)は、機械論的還元主義に反発し、創造的進化論を提唱した哲学者であり、彼の著作『笑い』7 は、もちろんその思想を表している。イライザは、まさにロボットであり、言動はまるで機械だからおかしいのである。
ことの顛末を知ったヒギンズ夫人は、ヒギンズとピッカリング大佐が人間を研究材料にして人形遊びをしている、と言う。ヒギンズは、ヒギンズ夫人からイライザの将来についての心配を投げかけられても、次のような無責任な返答しかしない。
HIGGINS. I dont see anything in that. She can go her own way, with all the advantages I have given her.
MRS HIGGINS. The advantages of that poor woman who was here just now! The manners and habits that disqualify a fine lady from earning her own living without giving her a fine lady's income! Is that what you mean? (84)
ヒギンズ:そんなこと、僕の知ったことではありませんよ。彼女は勝手にやっていけばいい、僕がやった特技をいかしてね。
ヒギンズ夫人:あんなもの、何が特技なものですか、あのかわいそうな子にとって!貴婦人の収入もないのに、なまじそんな礼儀作法なんか身につけると自分で稼ぐことをできなくさせるだけですよ。
ピッカリング大佐もイライザの将来については楽観視していて、いくらでもイライザのために仕事は見つけてあげるつもりだと言う。ヒギンズとともに彼は、ヒギンズ夫人の面会日におけるとりあえずのイライザの成功を喜んでいる始末である。そしてイライザの礼儀作法の完成度を試す園遊会の場面に劇は移っていく。
3 ヒギンズに対するイライザの反発
第三幕の大使館の園遊会において、イライザはヒギンズのかつての生徒、ネポマックNepommuckの発音についての鑑識眼をうまくかいくぐる。大使館の園遊会でのイライザの社交界デヴューは大成功であった。続いての第四幕の舞台は、ウィンポール街のヒギンズの家の実験室である。ヒギンズは園遊会から帰り、スモーキング・ジャケットを着て炉のそばの安楽椅子に、何もかも終わったといった感じでぐったりと腰をおろす。外套と帽子は、客間に脱ぎ散らかしている状態である。ヒギンズが、スリッパがないといってどなると、イライザは園遊会の盛装のまま、だまってスリッパをヒギンズに用意する。「王女様だ」とまで言われたイライザがヒギンズの家ではスリッパを用意する下女である。夢のような光景と現実。その落差は大きい。
ヒギンズは、イライザに対してねぎらいの言葉もなく、自分が「賭け」に勝った話をピッカリング大佐にする。確かに今回のことは、イライザが園遊会に出て公爵夫人として振る舞えるかどうかの賭けにはちがいなかった。だが、イライザの懸命の努力が実ったからこそ現実の人々がイライザの優美さと気品を賛美したのである。イライザは一時でも夢を見た。今、「賭け」の勝敗の話を彼女の前でするのは、デリカシーを全く欠いている。ヒギンズは、やれやれといった感じで「ありがたい、何もかも終わった」“Thank God it's over!” (98) と言う。それを聞いて、イライザは憤怒のあまり身をよじる。怒りに、追い打ちをかけるようにヒギンズは、園遊会では最初はおもしろかったが、だんだん退屈してきたとか、賭けをしていなければ発音の練習は投げ出していたとか言う。ピッカリング大佐は寝室に行き、ヒギンズも行きかけようとしたが、スリッパを取りにもどってきた。そのとたん、イライザはヒギンズに「自分勝手な人でなし」“you selfish brute”(100)と言いながらスリッパを投げつける。イライザの怒りが爆発する。ピアス夫人やヒギンズ夫人の心配したとおりになった。イライザは完全に平静さを失って、「わたしはどうなるの、わたしはどうなるの」 “Whats to become of me? Whats to become of me? ” (100) と悲痛に叫ぶ。イライザは、ヒギンズは、イライザが園遊会で疲れたから、スリッパを投げるという行動に出たのだと勝手に解釈している。イライザは、すでにロボットの状態から脱して自分の意志のあるひとつの人格をもった独立した人間である。ヒギンズはそれに気付かない。無神経に「なんなら、結婚したっていい」“You might marry” (102)と、イライザに言う。それに対してイライザは、「花売りはしたけれども自分を売ることはなかった」“I sold flowers. I didnt sell myself” (103)と応酬する。イライザは、自分が物質ではなく、生きている人間なのだと必死に叫んでいるのである。ヒギンズは、それでは資産家のピッカリング大佐にお金を出してもらって花屋でもやればいいともちかける。そして彼はピッカリング大佐との賭けに勝ったことを喜び、くすくすと笑いながら、ピッカリング大佐が、今日までイライザが着ていた立派な服の代金や宝石の借り賃の支払いで200ポンドほど出費をしたことを無神経に言う。まるでイライザがやっかい者でピッカリング大佐にいらぬ出費で損をさせたといわんばかりである。
イライザは、怒って物を盗んだといわれるといやなので、どれとどれが自分のものであるかはっきりして欲しいという。イライザは、ヒギンズから買ってもらった指輪もはずして渡す。すると、ヒギンズは暖炉めがけてその指輪を投げつける。幸い夏なので暖炉には火がついていない。ヒギンズは、腹を立てながら寝室へ去って行く。残されたイライザは、ヒギンズが行ってしまうと、ひざまずいて指輪を探し見つけだす。少し考えたあと、果物皿の中にそれを放り込むようにして置いた。
イライザの内面が、言葉を磨き教養を深めることによって高まったことにヒギンズは思い至らない。イライザにとって、ヒギンズに買ったもらった指輪は心からうれしいものだったにちがいない。だから、必死になって探したのである。だがこの時、イライザはヒギンズとの別れを決心したので、果物皿に指輪を置いたのであろう。イライザの心の動きが、目に見える。ショーの劇作家としての力量が存分に表されている。
イライザは部屋にもどって、家を出る準備を整える。外では、フレディ・エインスフォード・ヒルがイライザへの恋に悩み街頭に立っていた。フレディは、イライザに求愛し、イライザにやさしい言葉をかけてもらうと、彼は自制心を失って夢中で彼女にキスをあびせる。巡回にきた警官に追い立てられると、ヒギンズ夫人に相談することを思いつき、二人はヒギンズ夫人の家までタクシーに乗っていくことにした。
4 俗的な世界と「超人」の世界
第五幕の舞台は、ヒギンズ夫人の客間である。いなくなったイライザを探しあぐねて、ヘンリー・ヒギンズとピッカリング大佐がやってくる。二階にはイライザがいることをヒギンズ夫人は隠している。そこへ演説家として成功したイライザの父のドゥーリトルが登場する。ヒギンズ夫人は、イライザを養うのは実の父のしかないと思って、二階にイライザがいることを明らかにする。それを聞いてヒギンズは驚く。ヒギンズ夫人は、ヘンリーのもとから、なぜイライザが家出したか説明し始める。イライザは二人になついていた。一生懸命二人のためにやった。だが、彼女に一言も声をかけず、「やっと済んだ」とか「もううんざりだ」とか言いながら自分たちだけ喜んでいた。その冷たさが家出の原因だと述べる。イライザが欲しかったのは、いたわりや優しい言葉だったのである。ロボットと人間の違いは感情があるかないかである。イライザが問題にしているのは、「花売り娘と淑女の違いは、どう振る舞うかということではなく、どのように扱われるか」 “the difference between a lady and a flower girl is not how she behaves, but how she's treated. ” (122)ということなのである。礼儀作法や本当の身のこなしは、その人のもっている自尊心、信条、物の考え方が反映するものである。ヒギンズが、イライザを「いつまでたっても花売り娘としてしか扱わない」“he always treats me as a flower girl.” (122)ことは自尊心“self-respect” (122)を傷つけることでしかない。ところが、「超人」であるヒギンズは、自尊心は大切であることは認めるが、人に対する依頼心があるうちは自尊心が育たないという。ヒギンズは次のような内容のことを言う。本当のレディになりたいならば無視されていると思うのはやめること。ヒギンズのような独立した人間の生活の冷たさや緊張に耐えられなければ、もとのドブにもどること。ドブにもどれば、人間というよりは動物のように、働き、抱き合い、喧嘩し、酒を飲んで眠れる。何の訓練や練習努力もせずに、それは味わえる。その世界は、科学・文学・古典音楽・哲学・美術とはちがう世界だ。
「超人」は物質主義的世界から脱し、快楽や欲望を満たすだけの情感にまみれた世界にいると、精神的な高みに至ることができないと考える。動物的生活は、刺激的で感覚的で熱く強烈である。一方、精神的で高尚な生活は、冷たく緊張したものである、とヒギンズは考える。
ショーの創造的進化論によると、物質主義的な生き方は、行き着くところ破壊と戦争を生み出す。それに伴って残忍さと偽善が横行し、文明が滅亡の危機に瀕する。人間にとって克服しなければならないものは、このような物質主義である。ショーはヒギンズの口を借りて、感覚的欲望生活を追い求めるだけでは、動物レベルにしかとどまれず、そこから抜け出して精神性を深めることの重要性を説いている。
問題は、精神生活を求めるあまり「冷たく緊張した世界」“the coldness and the strain of my [his] sort of life” (130)に住むヒギンズのような「超人」が、イライザのような女性とどのような人間関係をもったらよいかということである。火花を散らすような、二人の本音の話し合いが始まる。
5 イライザが心から求めていたもの
イライザはヒギンズに無視されて通り過ぎられるのがたまらないという。それを聞いたヒギンズは、ずっと強がりを言っていたが、とうとう告白ともいえるしおらしいところを見せはじめる。イライザがいなくなるとさびしい。イライザの声や姿にすっかりなじんでしまった、というよりは好きになってしまった、とヒギンズにしては珍しく飾らない素直な心をさらけだしている 8。ここで、イライザがヒギンズを受けとめればハッピーエンドになるが、イライザは、次のように言って、せっかくのヒギンズの求愛の手からするりと滑り落ちてしまう。
LIZA. Well, you have both of them on your gramophone and in your book of photographs. When you feel lonely without me, you can turn the machine on. It's got no feelings to hurt. (127)
そう、両方(声や姿)ともあなたの蓄音機や写真帳に入っていますわ。私がいなくて淋しくなったら、蓄音機をかければいい。機械は腹をたてたりしませんから。
イライザはこのようにヒギンズをいささか突き放した言い方をする。音声学に熱心なあまりイライザの気持ちを考えなかったヒギンズに対して、痛烈な批判を浴びせるのである。蓄音機や写真帳は、いくら生きた声を録音していても真の実在にはならない。それらは応答がない単なる物質である。生身の人間ではなく、物体としてのイライザが蓄音機や写真帳の中にいるので、それで満足せよ、とこれまでのヒギンズによる仕打ちをそのまま逆転させて、彼を責め立てる。
イライザが、「私のことを愛してくれない人を愛してあげる気になりません」“I wont care for anybody that doesnt care for me.” (127)と言うのは、男女間の自然の展開である。ところが、ヒギンズは創造的進化の途上にある「超人」なので、そういう俗物的な考え方を「商売人根性だ」“Commercial principles.” (127)として退ける。そして続けて「僕は今、商売人根性に対する正当なる侮蔑の念を表明しているのだ。愛情の売り買いはしないし、しようとも思わない」“I am expressing my righteous contempt for Commercialism. I dont and wont trade in affection.” (128)とヒギンズは述べる。「超人」であるヒギンズは男女の愛情ではなく、「慈愛のための生」を愛する “I care for life, for humanity.”(127)という。だが「超人」ではないイライザにはその境地を知るよしもない。一見すると、この場面は以上のようなものであろう。ところが次の場面で、必ずしもイライザが「超人」の境地を知らないとは限らないことが分かる。この劇でショーが誤解して欲しくなかった部分がここにある。
イライザによると、彼女が話し方の勉強を一生懸命することができたのは、花屋で働くことができるようになるためだけでなく、皆と一緒にいるのが楽しかったからで、その間にだんだんヒギンズのことを大切に思う気持ちが出てきた。身分のちがいがあるので、もちろん恋してくれなどとは言わない、ただもっと友達のようにして欲しい、とイライザは訴える。イライザは依頼心や男女間の愛情を求める気持ちから「私を愛してくれない人を愛する気になりません」と言っているわけではなかったのである。
「友達のようにして欲しい」“more friendly like” (130)となると、イライザのヒギンズに対する思いは恋愛感情を超越した「超人」の「慈愛のための生」の中での事ということになる。同様に、イライザはフレディに対しても、「自分を必要としているから」という理由でフレディを愛しているのである。
イライザは、ヒギンズに自分の気持ちが伝わらず、ヒギンズが態度を変えることもないのを見て取ると、ついにフレディと結婚することを宣言する。ヒギンズに教えてもらった音声学を、今度は人に教えることによって生活の糧を得るつもりだと話すと、明らかにヒギンズは狼狽する。
ここでヒギンズは、堂々としたイライザにとうとう根負けし、「君と僕とピッカリングは、もう二人の男と一人の馬鹿娘ではない。根っからの3人まとまった独身主義者だ」 “You and I and Pickering will be three old bachelors together instead of only two men and a silly girl.” (132) と言って、イライザが本当に独立した女性となったことを認める。この場合の独身主義者とは、男女間の俗的な結びつきを排し、人間同士が独立しながら友愛するという意味である。ヒギンズは、もう片意地をはることをやめ、必死に生活に密着した存在のイライザにもどってくることを懇願する。だが、もうイライザには結論が出てしまっていた。イライザはフレディと結婚する。
おわりに
「超人」であるヒギンズは、通俗的な男女間の情感を超越する世界に住んでいる。イライザは男女間のレベルでヒギンズの態度を冷たく感じたのではなかった。イライザはヒギンズの言う「慈愛のための生」の中で人を愛する境地にすでに立っているので、「友達のようにして欲しい」と思っていたのである。男女間の愛だけに固執すると、イライザとヒギンズが結ばれないとおさまりがつかなくなる。ところが、イライザは真に独立した女性に成長しているし、友愛のもとに、人間性を尊重しながら人間関係を結ぶことができるようになっていたので、二人が恋愛して結局結ばれるという結末では、ショーがこの劇で訴えたかったことが台無しになるのである。
刺激と反応を繰り返すロボットは、意志が介在しない言わば「物質」である。「人間」らしくあるためには、自己意識と意志をもたなければならない。イライザは、ヒギンズから教育を受け、自らの“Life Force” を原動力として精神性を高め、自己意識と意志を持つ自立的かつ創造的な人生を送ることができるようになった。イライザのような女性は、自立して男性をも扶養するほどの活力をもっている。この作品が書かれた時点では、女性の自立はまだ珍しかった。ショーは、Pygmalion によって、自立精神に溢れた女性像を高らかに謳い上げた。ショーの作品に登場する女性は、“womanly woman” よりむしろ、自立した “new woman” が多い。自分の運命を自分で切り開く姿は、運命に翻弄され環境に左右される受け身のそれではない。
そもそも、下層階級と中流階級の間にある階級の溝は、人間の差異を表すものではない。ヒギンズは、たった六カ月で花売り娘を公爵夫人に仕立てあげることができた。ショーは、Pygmalionによって貧乏人に自尊心をなくさせ堕落させる貧困は、努力しだいで克服できることをも示した。機械論的・物質主義的な人生は不毛である。そうならないためにも運命に立ち向かう意志を働かせ、受動的な人生のあり方を変革し、進化目的を意識しながら精神性を高める創造的進化論がこのPygmalionの背景にあることをこの論考で議論できたと思われる。
註
1. Pygmalion をもとにアラン・ジェイ・ラーナーAlan Jay LernerによってつくられたミュージカルMy Fair Lady『マイ・フェア・レディ』がある。Alan Jay Lerner, My Fair Lady (Harmondsworth: Penguin, 1956)
2. Bernard Shaw, Pygmalion (1918, London; New York: Penguin Books, 2000)この作品の引用はすべてこの版に基づき、以後引用箇所は括弧によって頁数のみを記す。また引用の直後の日本語訳については、倉橋健訳「ピグマリオン」『バーナード・ショー名作集』鳴海四郎他訳、白水社, 1966年、321頁~426頁を参照し、自分の拙訳をほどこした。
3. Pygmalion の副題は、A Romance in Five Actsである。この劇はロマンス好きな観客の関心を伝統的な劇作の手法をとって惹きつけているが、内容は巧みにイライザという女性の魂の創造的進化を描いている。Pygmalion の最後の方で、ヒギンズとイライザが結ばれないものの、ヒギンズの心に揺れ動くものが見え隠れするのは、かけひきに終始する制度としての結婚のような恋愛はしりぞけるが、純粋な人間愛を創造的進化論における「超人」は排除しないことを示唆しているにちがいない。「超人」と創造的進化論との関係については、このすぐあとに「超人」について若干の説明を加えた。さらに4章で「超人」を詳しく説明した。「超人」は簡単に言えば、創造的進化を遂げた、あるいは途上にある人間であり、この論考ではヒギンズも「超人」に含めることにする。
4. 創造的進化論が顕著に示されている作品としてMan and Superman (1903)とBack to Methuselah (1918) が挙げられる。
5. エリック・ベントリーEric Bentleyは第四幕でイライザの魂が誕生し、第五幕でイライザが生命力を進化させているとしている。Erick Bentley, A Personal Play (Chelsea House, 1988), 13-7.
6. 市川又彦『笑う哲人 バーナード・ショー』早稲田大学出版部 1975年、12頁。
7. アンリ・ベルクソン『笑い』林達夫訳 岩波書店 1976年。
8. イライザの声や姿にすっかりなじんで、それが好きになったということであり、「超人」ヒギンズが決して恋愛めいたことを口走っているわけではないことに気をつけなければならない。
