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『傷心の家』における「創造的進化論」

“Creative Evolution” in Heartbreak House

 

                                                                 森岡 稔

1. はじめに

バーナード・ショーの『傷心の家』Heartbreak House (1919) 1 は、『人と超人』Man and Superman (1903) と『メトセラへ還れ』Back to Methuselah (1921) の間にあって、『人と超人』や『メトセラへ還れ』と同様に、「創造的進化論」“Creative Evolution” をその中に盛り込んでいる。人間は環境の奴隷であった受動的状態から、科学や知性の進展によって、自らが主人となり自分の足で立つ存在とならなければならなくなった。ところが、このことを自覚しない人間は受動的な動物の世界から脱却できずに、目的意識を失って倦怠を感じ、その挙げ句、人類が築き上げた文明を破壊する戦争を引き起こしてしまっている。倦怠から生まれる生存のむなしさは、フロイトが言うような、「死の欲動」2 をもたらすことさえある。創造的進化における「高次の進化人種」は、道徳的な責務を自ら強く感じ,人類的な視野に立ちながら強い意志をもって行動する人間である。ショトーヴァー船長は、まさに「高次の進化人種」であるが、老齢であることもあり、現実には真の役割を果たすことができないでいる。『傷心の家』では、実業家、理想主義の起業家、アマチュア音楽家の若い娘、ロマンチストの遊び人の夫、その夫人、植民地総督の夫人、若手外交官などが登場するが、その多くが倦怠に苦しんでいる。登場人物の中には、ショトーヴァー船長のように創造的進化の必要性を無意識に感じている者もいれば、まったく動物的世界にどっぷりつかっている者もいる。『傷心の家』は現代において、人類の進化目的をしっかりと意識し、創造的進化を推進すべきだと示唆している。

 

2.『傷心の家』の時代背景と「傷心の家」の人々

『傷心の家』の成立時期は研究者の意見が分かれているが、第1次世界大戦(1914-1918)の戦中に執筆されたことはまちがいない。ヨーロッパにとって大戦は大変な災禍であり、ショーのみならず知識人に対するショックは大きかった。ショーは『人と超人』で明確に意識した「創造的進化」を『傷心の家』においてロシア風な悲劇的タッチで描き、次に、『メトセラへ還れ』で「創造的進化」を生物学的・神話的・未来的に描き出した。ショーはニーチェやベルグソンやフロイトのように人間の内面にある「力」や「衝動」について考えたのだった。彼は、「生の力」や「超人」について思考をめぐらし、進化目的や進化欲求を理解することが創造的進化にとって欠かせないことに気付いたのである。

「超人」を目指して創造的進化の途上にある人間は、自らの中に「生の力」Life Forceを内在させている。「超人」は、「生の力」が宇宙の諸問題を解決して「神性」に到達する原動力であることを知っている。戦争は人間がこの創造的進化を実践していくことを怠った結果である。世界大戦前後のヨーロッパに胚胎する感情的浅薄さ、浮遊する成り行き任せ、「倦怠」はニヒリズムを生み出していく。

『傷心の家』は、人物類型ばかりでなく、この時代の文化的類型をあますところなく描き出している。それは、ヴィクトリア朝的理想主義・帝国植民地主義・大企業の資本主義的倫理・無力な夢想家のロマン主義などである。創造的進化を意識しているショトーヴァー船長は、「最高精神集中」3 を目標にして、その獲得に邁進している。だが彼は、実際にはその「最高精神集中」を達成することに困難を感じている。老齢のためである。高次の進化人種であるはずのショトーヴァー船長は、資本主義、国家主義、軍国主義の結果である大戦について抗議するが、創造的進化を十全に推進することができないので歯がゆさを感じている。「傷心の家」の住人たちは、教養もあり、有閑で、創造的進化についての理解はありながら、時代の流れに抗しきれず、現実には何も行動しない。結局、彼らは倦怠をもてあますしかない人間たちになってしまっている。アントン・チェホフ(1860-1904)は『桜の園』(1903)によって、ショーと同様に「傷心の家」の風景を描いた。チェホルとショーの「傷心の家」の住人は、両方とも世の中を変えようという行動力はない。しかし、チェホフは「傷心の家」の住人たちの、運命に押し流されて朽ちていく静的で叙情的な生き方を描いた。それに対しショーは、「傷心の家」の住人たちが物質主義的な考え方を嫌い、主体的意志をもって積極的に運命を切り開いていく姿を描いている。

「傷心の家」の住人たちのところへ、「傷心の家」の住人たちとは異なった種類の訪問客がやってくる。精力的に金儲けをするマンガンや社交界に憧れていたレディ・アタワードのような物質主義的な世界に住む者である。Heartbreak House の住人と、マンガンやレディ・アタワードのような「乗馬ホール」Horseback Hall の住人といった、二つの人物類型が描き出されている。『傷心の家』の序文に、次のように二つの人物類型が記されている。

 

The alternative to Heartbreak House was Horseback Hall, consisting of a prison for horses with an annex for the ladies and gentlemen who rode them, hunted them, talked about them, bought them and sold them, and gave nine-tenths of their lives to them, dividing the other tenth between charity, churchgoing (as a substitute for religion), and conservative electioneering (as a substitute for politics).  (H.H.14)

「傷心の家」と反対に位置するものは、「乗馬ホール」である。「乗馬ホール」は調教場(厩舎:馬の監獄)とそれに付属した紳士淑女の住む別館で成りたっているところである。彼らは馬に乗ったり、馬を追いかけたり、馬について話をしたり、馬を売買したりする。彼らの生活の10分の9は馬にあてられ、残る10分の1は、(宗教の代用物として)慈善活動や教会に通うことや(政治の代用物として)保守党の選挙運動に費やされる。

 

このように『傷心の家』に集う登場人物は「傷心の家」の住人と「乗馬ホール」の住人の二つの人物類型に分けることができるが、もう少し掘り下げてその人物類型をみていくことにする。

 

3.登場人物の様々な文化的人物類型

3-1 ヘクター・ハッシャバイ・・・ロマン主義的夢想家(「傷心の家」の住人)

第1幕で、若い娘のエリー・ダンが「傷心の家」に現われる。彼女は、「傷心の家」の女主人ハッシャバイ夫人に国立美術館で見知らぬ美男子と知り合った、と言う。その美男子はマーカス・ダンレーと名乗り、シェークスピアの『オセロ』の中にあるような勇ましい冒険を語ってくれた。すると、まさに目の前にその人物が現れた。マーカス・ダンレーとは、実はハッシャバイ夫人の夫、ヘクター・ハッシャバイであった。

ヘクター・ハッシャバイは、嘘の冒険談を話したり、夢みたりするロマンティックな夢想家である。ヘクターはエリーに恋愛をしかけたり、レディ・アタワードに巧みに声をかけたりと恋愛遊戯に忙しい。第一幕の終わり頃でレディ・アタワードにキスをするが、ハッシャバイ夫人はそれを発見しても意に介さない。レディ・アタワードもヘクターも本気ではないことを知っているからである。恋愛遊戯も含めて、現実のできごとなどヘクターにとってはゲーム感覚である。ヘクターは、現実逃避のために夢想の世界に遊んでいるのではない。そもそも「傷心の家」の住人たちは現実の表層に目を奪われずに真相を見る習慣を身につけている。いわば創造的進化の途上で持つ「心の目」“mind’s eye” を持っている 4。ヘクターは次のように言う。

 

It is a pose like any other. In this house we know all the poses: our game is to find out the man under the pose.  (H.H.151)

それでもやっぱりポーズですよ。この家では、僕たちはあらゆるポーズを知っているのです。僕たちのゲームはめいめいのポーズの下に隠れている本当の姿を見つけ出すことなんです。

 

ヘクターをただのロマン主義的夢想家では片付けることはできない。「傷心の家」の住人としてショトーヴァー船長と同様、創造的進化を理解している人間である。

 

3-2 アルフレッド・マンガン ―― 資本主義的倫理観をもつ大企業家(典型的「乗馬ホール」の住人)

アルフレッド・マンガンは、エリー・ダンの婚約者で年齢は55歳程である。エリーは、マーカス・ダンリーがハッシャバイ夫人の夫だということを知って幻滅し、もともとの婚約者であるマンガンへと気持ちを戻していく。エリーがマンガンとの結婚を決意したのは、彼との結婚によって貧窮生活から解放されたいと望んだからである。父親の借金もあって、エリーの婚約はお金目当てである。彼女は父の事業の協力者としてのマンガンにとても感謝している。詩人肌のエリーの父マッツィーニ・ダンは、事業によって利益を出したものの、経営に失敗して倒産した。その時マンガンが助けてくれた、と彼女は言う。ところが事実はまったく違っていて、マンガンは資本主義のしくみを悪用してわざとマッツィーニを破産させ、自分の会社にしてしまったのである。

エリーはこの事実を知っても驚かずマンガンとの結婚をあきらめない。彼女はとうとう結婚をビジネスだとまで言いだす始末である。このようにマンガンが彼女の父を陥れたとわかっても少しも動じないエリーにマンガンは驚き、彼はエリーが婚約を破棄するように次の策を考える。マンガンは、実はハシャバイ夫人が好きなのだと告白する。すると、お返しにエリーもハッシャバイ夫人の夫、ヘクターに恋をしていると言う。エリーは、ハシャバイ夫人も既にその事情を知っていると言う。マンガンは頭が混乱して頭痛を訴え、この家は「狂人屋敷だ」と言ってわめく。そこで、エリーはマンガンの頭痛をなおしてやるため、催眠術をかけて眠らせる。

そもそも、物質主義者マンガンが創造的進化を意識的にも無意識的にも持っている「傷心の家」の住人たちの中に飛び込むことは、「傷心の家」の住人たちから猛攻撃される対象になることは必至である。「傷心の家」は彼にとっては「裁判所」のようなものなのだ。そのため、マンガンは自暴自棄になって上半身裸になったり、果ては爆死したりしてしまう。

 

3-3 ハッシャバイ夫人(ヘサイオニー)―― ヴィクトリア朝的理想主義(外面的には、「乗馬ホール」の住人であるが、「傷心の家」の住人のよき理解者である)

  美貌の持ち主。ハッシャバイ夫人は、エリーとマンガンの結婚に大反対である。何よりも彼女は、妻や母といったヴィクトリア朝的女性の理想的役割をわきまえている。そこで彼女は、マーカス・ダンリーのほら話につられてのぼせているエリーを戒める。しかしその一方で、彼女にはヘクター・ハッシャバイとレディ・アタワードとの恋愛遊戯を許してしまうほどのおおらかさがある。ヴィクトリア朝的道徳心を持ちながら、「傷心の家」のボヘミアン的なところも受け継いでいるのである。ハッシャバイ夫人とヘクターは大恋愛の経験があるため、両者のどちらが誰と浮気しても本物になるはずがないという確信をもっている。したがって、エリーとマンガンを引き離すために、ハッシャバイ夫人がマンガンを誘惑しようとしてもヘクターは意に介さない。ハッシャバイ夫人は、ヴィクトリア朝的な日常生活に満足しているが、ショトーヴァー船長のような深遠な創造的進化の思想も理解している。彼女はその思想などわからないふりをして、ショトーヴァー船長の世話をすることによって、創造的進化の進展を見守っているのである。ハッシャバイ夫人はヴィクトリア朝的道徳の枠内にいながら、アリアドニーが「傷心の家」のボヘミアン的生活を逃れ、安定を第一義的な理由で結婚したことを、よいものだとは思っていない。だからこそ、エリーにアリアドニーがしたような生活の安定だけのための打算的な結婚をして欲しくなかったのだ。ヘクターにも自由恋愛をすすめるなど、明らかにハッシャバイ夫人は「傷心の家」の住人の思想の持ち主である。彼女がヴィクトリア朝道徳的日常生活に埋没していると思ってはならない。

 

3-4 ランダル・アタワード―― ひとりよがりの英国独身紳士(「乗馬ホール」の住人だが、「傷心の家」の気質をもっている)

 ランダル・アタワードは独身紳士で、アリアドニーの夫のヘースティング・アタワードの弟。したがって、レディ・アタワードの義弟である。ランダルはレディ・アタワードが好きで、レディ・アタワードが「傷心の家」へ里帰りをしていると聞いて、後を追ってきた。彼はヘクターと恋の鞘当てをし、嫉妬に駆られる。ヘクターはランダルを適当にあしらう。そんなヘクターに対し、ランダルは自己主張しようとする。

 レディ・アタワードは、ランダルの嫉妬心でいつも迷惑をしているとヘクターにこぼす。ランダルは外務省に勤めていて、一見すると「乗馬ホール」の人間であるが、「乗馬ホール」向きの人間ではなく、しょっちゅう下手なピアノを弾いたり、画を描いたり、文学書をあさってばかりいる。「傷心の家」でも笛を吹いて過ごしている。芸術を愛する「傷心の家」タイプであるので、「傷心の家」に吸い寄せられたのだと言える。

 

3-5 レディ・アタワード ―― ハッシャバイ夫人の妹・帝国植民地主義を経験(「乗馬ホール」の住人だが、「傷心の家」をなつかしむ)

 レディ・アタワードはハッシャバイ夫人の妹で、23年ぶりに「傷心の家」に帰ってきた。19 歳で各地の植民地総督を歴任するヘースティング・アタワードに嫁ぎ、総督夫人として優雅な暮らしをしてきた。ボヘミアン的な「傷心の家」の生活を嫌って「乗馬ホール」の世界にあこがれ、家を出た。ところが、世間に背を向け芸術家的で、伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている「傷心の家」の暮らしがなつかしくて今回、里帰りした。どっぷりつかってきた「乗馬ホール」の生活に飽き、「傷心の家」の気質が疼いて「傷心の家」に帰ってきたのであるが、自分ではそれに気付いていない。だから、依然として「傷心の家」の人々の悪口ばかりを言っている。

 

3-6 エリー・ダン ―― マンガンの婚約者・ヴィクトリア朝的道徳をもっているが、ショトーヴァー船長の感化を受ける(「傷心の家」の住人)

若い娘のエリー・ダンは冒険談を語ってくれたマーカス・ダンレーがヘクター・ハッシャバイであることがわかって、いきなり失恋してしまう。エリーが “I have a horrible fear that my heart is broken, but that heartbreak is not like what I thought it must be.”(H.H. 85)(「私は自分の心が破れてしまっているという恐ろしい不安にとりつかれているのだけど、その傷心は前に考えていたものとは違う」)と言うと、ハッシャバイ夫人は “It's only life educating you.” (H.H. 85)(「生があなたを教育しているだけのことだわ」)と答える。ここで使われている“heartbreak” という言葉は、単に失恋を意味するのではなく、創造的進化にエリーが目覚め始めていることを指している。「生が教育する」とは、「生の力」“Life Force” がエリーに働きかけていることに他ならない。

エリーは、ハッシャバイ夫人からマンガンと結婚するのを止められる。エリーはお金目あてでマンガンと結婚することを、同性から非難されるとやはり苦しい。エリーはハッシャバイ夫人と自分とでは、経済的な面で立場がちがい、貧窮では余裕が生まれず、「魂」を養うこともできないと訴える。

 

It [My soul] eats music and pictures and books and mountains and lakes and beautiful things to wear and nice people to be with. In this country you cant have them without lots of money: that is why our souls are so horribly starved…It is just because I want to save my soul that I am marrying for money.  (H.H.143)

私の魂には音楽と絵と本、それに山と湖、きれいな服を着たり、その上、上品な人たちとつきあうことが必要だわ。この国では、たくさんのお金がなくては、それらは手に入りません。だから、私たちの魂がひどく飢えているの。・・・わたしがお金のために結婚するのは、みんなわたしの魂を救いたいからなのよ。

 

エリーは、ハッシャバイ夫人と同様、ショトーヴァー船長にも物質主義者のマンガンと結婚するのを反対される。エリーはショトーヴァー船長に「傷心の家」の精神教育を施される。ショトーヴァー船長は、エリーが彼女の魂を養うにはお金がなくてはいけない、と言うのに対して、自分を売りとばしたら最後、いろいろなものが手に入っても魂は打撃を受けて、回復不可能になってしまうと言う。ショトーヴァー船長は、エリーの追求するものが、いわゆる一般の「幸福」であることを指摘する。そして彼は、その幸福に「祝福」があるかないかが問題だと言う。「祝福」という言葉を聞いてエリーは、やっとショトーヴァー船長やハッシャバイ夫人が言っていることの真意がわかる。

 

Life with a blessing! that is what I want. Now I know the real reason why I couldnt marry Mr Mangan: there would be no blessing on our marriage. There is a blessing on my broken heart. There is a blessing on your beauty, Hesione. There is a blessing on your father's spirit. Even on the lies of Marcus there is a blessing; but on Mr Mangan's money there is none. (H.H.169)

祝福のある人生!それこそ、私の望むところだわ。マンガンさんとどうしても結婚できないわけが、今やっとわかったわ。それは私たちの結婚には祝福がないからよ。わたしの傷心の心にも、ヘサイオニーさん、あなたの美貌にも祝福はあるわ。あなたのお父さんの魂にも、マーカスの嘘にでさえ祝福があるもの。それなのに、マンガンさんのお金には祝福がないのよ。

 

「祝福のある人生」というのは、創造的進化論でいうと、進化の目的がわかっていて、動物的な物質主義から脱却して、道徳的意識を満足させながら知的生活を過ごすことに他ならない。マンガンのような物質主義に漬かった生活は、表面的には「幸福」であるように見えるが、魂はいやされず、絶えず落ち着かない生活を続けていくことになる。エリーは「祝福のある人生」が真の幸福であることにやっと気づいたのである。

 

3-7 マッツィーニ・ダン ―― エリーの父親・詩人肌のヴィクトリア朝道徳の持ち主(「傷心の家」の住人)

エリーの父マッツィーニ・ダンは、もともと「傷心の家」の住人の資質はもっているが、巡り合わせで「乗馬ホール」の世界で生きてきた人間である。彼はマンガンの経営的手腕と金儲けの才能を高く買っている。彼は破産の原因を自分の金儲けの才覚のなさだとし、マンガンをかばう。マンガンにとって「裁判所」のような「傷心の家」において、マッツィーニは、一方的に皆から糾弾されるマンガンをかばう「弁護人」である。エリーとの結婚も、貧乏暮らしをさせたくないとの親心からである。

彼は「傷心の家」の人々が、因習にとらわれず民主的で思慮のある持ち主だ、と言って褒め上げる。マッツィーニは「傷心の家」にきて、「傷心の家」の住人たちが本当のことを語り、一銭の得にもならないのにエリーがマンガンと結婚することを真剣に反対してくれるので、彼らをとても素晴らしい人たちだと思っている。やはり、マッツィーニは「傷心の家」の住人にふさわしい人間である。

 

 

3-8 ショトーヴァー船長 ―― 創造的進化主義の持ち主・この戯曲のヒーロー(「傷心の家」の住人)

ショトーヴァー船長は、はなばなしく創造的進化を掲げてその普及に邁進する人間ではない。88歳では歳をとりすぎている。世の中に打って出たのは何年も前のことで、今は引退状態である。高次の進化人種であるショトーヴァー船長は、マンガンのような物質主義者に対して生殺与奪の力を揮える武器、すなわちX線よりも強力な精神光線を放って、敵の前で爆弾を爆発させる武器を発明したいと思っている。ショトーヴァー船長の創造的進化の「霊力」は「傷心の家」全体を満たしている。マンガンはその「霊力」をあてられ、自尊心をこなごなに砕かれて泣き出す。エリーは、マンガンのこのような様子を見て、「傷心」の意味を次のように説明している。

 

His [Mangan’s] heart is breaking: that is all. It is a curious sensation: the sort of pain that goes mercifully beyond our powers of feeling. When your heart is broken, your boats are burned: nothing matters any more. It is the end of happiness and the beginning of peace. (H.H.140)

あの人の(マンガンの)心は破れかっています。それだけです。奇妙な気持ちだわ。慈悲深くもわたしたちの感じる力を超えてくれるような苦痛だわ。あなたの心が破れるとき、あなたの船が燃えてしまうの。もう何事もどうでもよくなるの。それは幸福の終わりで平和の始まりだわ。

 

「心が破れかかる」というのは、創造的進化の胎動である。動物的感情の世界を超えた崇高な慈悲深い精神的な世界。物質的なものに対する興味は薄れ、世間的な幸福ではなく、祝福された平和な世界が訪れる。「傷心の家」とは、物質主義的な、世間的な幸福を夢見る心が破れて、創造的進化の目的を意識した、手応えのある生き方を示す家なのである。「傷心」は決して、意気消沈したマイナスのイメージではなく、お金や享楽や常識にとらわれた心が破れて、物質主義から解放され自由になるというプラスのイメージをもっている。ショトーヴァー船長は、若い頃は、危機的な状況に自分を追い込んでまで、自分の生命を感じ取ることをしたのに、現在は老齢のために、自分を向上させることのない受動的な「幸福」を受け入れてしまっている。しかし、マンガンのような物質主義者を粉砕する高性能のダイナマイトや殺人光線づくりに精を出しているところを見ると、まだ彼の創造的進化の勢いは止まっていない。彼は、創造的進化論を生きている本当の「幸福」とそうでない受動的な「幸福」とは何かを区別して、エリーに対して次のように説く。

 

I feel nothing but the accursed happiness I have dreaded all my life long: the happiness that comes as life goes, the happiness of yielding and dreaming instead of resisting and doing, the sweetness of the fruit that is going rotten.  (H.H.148)   

今は、わしが生涯恐れていた呪わしい幸福しか感じられない。命が尽きるときにやってくる幸福だよ。抵抗したり実行したりする幸福でなくて、服従したり、夢をみたりする幸福さ。つまり、腐れかかった果実の甘さなのさ。

 

ショトーヴァー船長は、受動的な人間による怠惰が創造的進化を遅らせていると考えている。彼はラム酒を飲むことによって、かえって覚醒するという。しらふでいるときは、夢見がちでかえって現実を直視できなくなる。ラム酒を飲んでいれば、夢を見ることがないので平静を保てるという。さらに、ショトーヴァー船長は、舵取りをしっかりとっていれば「酔いどれ船長」ではないという。舵取りをしっかりして生きる人間の姿は、人間が受動的な生活態度を改め、自制心を持ち、強い「意志」で人生を切り開いていく創造的進化のそれにほかならない。

 

4.倦怠がもたらすもの ――「死の欲動」

『傷心の家』の終りの方で、空襲の場面がある。ヘクターは「傷心の家」の家中の明りをつけ、カーテンをひきちぎり、火までつけるという行動をおこす。砂利場に爆弾が落ちて、そこにいたマンガンは死ぬ。空襲が終ると、ハッシャバイ夫人は「なんて素晴らしい経験だったのでしょう。また明日の晩もやって来るといいわ」“What a glorious experience! I hope they'll come again tomorrow night.” (H.H. 181) といい、エリーも「本当にね」“Oh, I hope so.” (H.H. 181) という。物質主義的で富裕にこだわりすぎて、人生の意味を喪失した人間はニヒリズムに陥り、それが倦怠を引き起こし窒息寸前となる。その状況から「死の欲動」が生じ、果ては第一次世界大戦のような自滅的な戦争を招く。しかし、日常生活の瑣末事に巻きこまれている人々に、動物的な生活から脱却し、人生には広大な意味があることを想起させることはなかなか難しい。かつてそれは、宗教の役割であった。

 「生への衝動」であるエロス的衝動に対して「死の衝動」は、破壊へのタナトス的衝動といえる。「死の衝動」が外の対象に向けられると、「破壊への衝動」になる。生命体は、異質なものを外へ排除し、破壊することで自分を守っていく。破壊とは反対の衝動、人と人との間の感情と心の絆を作り上げるエロスを呼び覚ませば、破壊を少しはくい止めるができる。ショーによると、人間が自分の衝動を抑える方法の一つは、知性を強めることである。5

「傷心の家」の住人は、創造的進化を意識し始めているが、現実の世界は、破壊へとまっしぐらに進んでしまっている。とうとう「傷心の家」の人々はあきらめて、「死の欲動」を受け入れてしまう。世界の状況が悪すぎたのである。

 

5. おわりに

『傷心の家』においてショーは、科学によって衰退の憂き目にあった宗教に変わるべき「20世紀の宗教」である創造的進化論を提唱した 6。人間は動物的レヴェルから徐々に進化してきた。動物は環境の奴隷であるので、環境に対して受動的にしか振る舞えない。したがって、動物にとっての最大の関心事は、環境をどうにかくぐり抜けて生存を続けることである。それに対し、みずからの知力と想像力を使うことによって、科学の発達とともに、人間は自然を飼い慣らすことに努力し、そして成功してきた。その上で、人間は「人生の意味」を問うことができるようになった。ショーによると、人間は物質的・肉体的限界を乗り越えて、「心の目」「意志」「自制心」「超人」「知性」「生の力」といった創造的進化が差し出す新しい項目について探究を始めなければならない。人間は、受動的な「古い宗教」から意志的で能動的な「創造的進化論」という「新しい宗教」へと進まなければならないという。

『傷心の家』においてショーは、マンガンのような登場人物を断罪することによって物質主義を批判し、物質主義がもたらす戦争という「死の欲動」が世界にはびこることに警鐘を鳴らした。そこでショーは、物質主義的なダーウィンの自然淘汰説や適者生存説を疑問視し、宇宙には進化目的があるという知性的・精神的な創造的進化を提唱したのである。彼は、進化する知性的主体には自分で運命を切り拓く意志や意識があり、「生の力」がその原動力であると説く。物質主義の行き着く先である戦争を回避し、世界を平和へと導くためには、ショーの創造的進化論を理解することが良策であることはまちがいない。

                                

 

 

本稿は、2009年6月6日、渋谷の実践桜会ホールで開催された日本バーナード・ショー協会春季大会において、口頭発表したものに加筆訂正をしたものである。

 

(1) Heartbreak House の執筆年は1916-17年、出版年は1919年とする説がある。

(2) ジグムント・フロイト著「快原理の彼岸」『フロイト全集 17 』岩波書店、2006年、53-126)

(3)「最高精神集中」とは創造的進化における進化目的を集中的に意識することにほかならない。

(4) Bernard Shaw, Man and Superman (London: Constable, 1949), 110. “Life is evolving today a mind’s eye that shall see, not the physical world, but the purpose of Life.”

(5) アルバート・アインシュタイン&ジグムント・フロイト著『ヒトはなぜ戦争をするのか?』浅見昇吾編訳、花風社、2000年、49-57頁。

(6) Bernard Shaw, Back to Methuselah (London: Constable, 1949), lXXVi. “Creative Evolution is already a religion, and is indeed now unmistakably the religion of the twentieth century.” 

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