Ceremony における「場所の感覚」
―「網の目」のエコロジー ―
森岡 稔
はじめに
Leslie Marmon SilkoのCeremony(1977)は、彼女がナヴァホ・コミュニティー・カレッジで教鞭をとったあと、2年間滞在したアラスカで書きあげたものである。 ラグーナ・プエブロ族とメキシコ人と白人の血を引いた彼女は、作品においてアメリカ先住民文化とアメリカ白人文化との間にある葛藤やアメリカ先住民のあり方を追求している。Ceremonyは、アメリカ先住民、ラグナプエブロ族の居留地を背景にしており、テーマは「場所の感覚」“Sense of Place”による主人公の人間性の回復である。「場所の感覚」の「場所」とは生態地域のことであり、「感覚」とはその場所で生態学的に日常生きることで得られる洞察や知識をもとにした世界観のことを指す。エコロジカルな想像力が地域性を越えて普遍的な世界観を獲得していくためには「場所の感覚」が必要であることをCeremonyは私たちに示す。
近年、アメリカ文学作品の中に生命圏との網の目的相互関係を読もうとするエコクリティシズムがGary Snyderを中心になされている。1「場所の感覚」とは場所との関係性を生きること、すなわちその場所に注意を払いながら自分が誰であるか、自分がどこにいるのかということを確認する感覚である。これまでの人間中心主義に根本的な修正をし、場所に対して人間が密接な関係性を生きるときに、「場所の感覚」が生まれる。2 「場所の感覚」は地球という惑星に住むのは人間だけでなく他の生物たちも生きているのだという生態学的理解を導く。「場所の感覚」にとって国境は存在しないので、現在のエコクリティシズムは「場所の感覚」の次に「網の目」“Web”という土地のネットワーク概念を新たに生み出している。「網の目」とは、自己を世界の一部と感じ、地球規模の自然と自己との関係性の中でエコロジカルなアイデンティティを確立するためのメタファーである。
Ceremonyが提供する生態学的世界像は、相互依存の「網の目」というメタファーを特徴とするが、彼女は、それとは反対の「反・網の目」“Antiweb”をも提示することによって人類にアポカリプス的な警告も与えている。エコクリティシズムによって、健全な「網の目」という自己と世界との関係性を表すエコロジカルなメタファーと人類に害を及ぼす「反・網の目」という破壊的なメタファーの二つのメタファーが提示されてきてはいる。だが、「網の目」と「反・網の目」は軌を一にしており、反転することは容易である。どうしたらそれを防ぐことができるのかは、これまで指摘されてこなかった。その反転を防ぐヒントがCeremonyにある。この論文のねらいは、①Ceremony に書かれた内容を「場所の感覚」「網の目」というメタファーに照らしてみること。②主人公Tayoが病気を克服しながらどのようにアイデンティティを確立していったのか。③エコロジカルな想像力をもったTayoが世界の「反・網の目」に気づくことによって人類にどのような警鐘を鳴らしているのか。④「網の目」が「反・網の目」に移行するのをどのように防ぐか、を明らかにするというものである。3
1. 「場所の感覚」
Ceremonyの中のアメリカ先住民たちは土地に帰属しているので、土地を含めた自然を他者として見ない。自然は征服する対象ではなく、自分たちが自然の一部であるという考え方をする。自己のアイデンティティーを土地に結びついた「場所の感覚」で樹立しようとするのである。土地を基盤として自然のあらゆるものに結びつく。自然との間に自分本来のアイデンティティーを築いていく。彼らは場所との結びつきをもちながら、生の喜びを感じるのである。CeremonyにおけるMedicine ManのOld Betonieの次の言葉にも土地に帰属する喜びが表されている。
There was something about the way the old man said the word “comfortable.” It had a different meaning-not the comfort of big houses or rich food or even clean streets, but the comfort of belonging with the land, and the peace of being with these hills. (117)
Old Betonieによると、老人が「住み心地がよい」と言う言い方には、特別の意味合いがある。大きな家とか、豊富な食物、清潔な大通りを指すのではなく、土地に帰属している心地よさ、この山々と一緒にいることの平安な気持ちを意味している。
Old Betonieは自らが土地に帰属して、土地と調和している状態を幸福と感じているのである。彼らは部族が自らの土地と結びついているときこそ、彼らの本来のアイデンティティーを確立していると思っている。アメリカ先住民には自然を他者とみるという発想はもともとない。常に、土地と部族とは不可分のものであるから、境界をつける必要もない。白人たちは、Tayoの父親的存在であった叔父のJosaiahの土地を囲い込んで彼のまだら牛を奪いとってしまったがこのような行為はアメリカ先住民の土地感覚とはまったくちがう。土地には部族の記憶が宿っており、まさに土地そのものが彼らの精神なのである。自然によって育まれた「場所の感覚」は実生活に根ざしており、数々の具体的イメージあるいは記憶を網の目のようにつなげ、象徴的・隠喩的に宇宙を構成していく。Ceremonyは、神話的世界観によって、かつて繋がっていた事実と人間との関係を回復する物語である。「場所の感覚」がその手助けになっていることはいうまでもない。
2. 「網の目」というメタファー
「場所の感覚」は土地を基盤として自然のあらゆるものに結びつくため、時間や空間の境界線を取り払い統合的な調和をはかろうとする。「場所の感覚」とは地球規模の自己と世界との関係性の中に生きるので、出来事や経験を有機的に結びつけていく働きをもつ。これが「網の目」である。環境文学の批評家として第一人者、Lawrence Buellは「網の目」について次のように述べる
Every place signifies; every place, every creature has a story connected with it that forms a web of significance (always in process, not a constant) within which human thought assumes form and meaning. (Buell 287)
Buellによると、すべての場所には意味がある。すなわち、すべての場所、すべての生き物にはそれにまつわる物語があり、かくして意味の「網の目」(常に形成されつつあり、定まったものではない)が形成される。そして、その中でこそ、人間の思考は形と意味を持つ。
Ceremony におけるTayoの遍歴は、成熟していく精神の旅である。Buellがいうように、物語が形づくる意味を「網の目」の中に見て、自分をその中に位置づけることによって、Tayoは精神の落ち着きを取り戻す。
Tayoはフィリピン戦線で経験した戦争の悲惨、狂気を忘れられずそれらの夢に苛まれていた。彼は苦しみから逃れるために自分を希薄なもの「白い煙」“white smoke”(14) だと考えるしかなかった。つまり生きながら死んだのも同然の状態である。希薄になった心身を回復していかなければならないのであるが、彼はしだいに、自分の病気治癒の方法は、共同体全体の病からの回復に他ならないことに気付く。アメリカ先住民の血を受け継いでいる彼は、自分の病気の治癒を個人的なものととらえず、自分の病気が治るためには、部族というものをもう一度とらえ直して、物語や伝統を継承し創造的に新たな部族を作っていく再部族化が必要だと感じ始める。
Tayoの回復のきっかけは、さまざまな愛である。父親がわりの叔父Josaiahや従兄弟Rockyへの愛。白人との混血であるがゆえに自分を捨てた母親への憧憬。山の中で出会った自然の象徴ともいうべき女性Ts’eh Montanoとの交情。Tayoがそれらの愛の交歓や愛の記憶をたどることによって、それを回復の契機とするのである。
The mountain outdistanced their [white men’s] destruction, just as love had outdistanced death. The mountain could not be lost to them [Native Americans], because it was in their bones; Josiah and Rocky were not far away. They were close; they had always been close. And he loved them then as he had always loved them, the feeling pulsing over him as strong as it had ever been. (219)
愛が死をかなたに遠ざけたように、山は白人の破壊をはるかに超越している。山は、アメリカ先住民にとって彼らの骨の中に存在するゆえに失われることはない。Josiahと Rockyは遠くにいるのではなく近くにいる。いつだって近くにいた。そのときTayoは、いつでもそうだったように、二人に限りない愛を感じ、その感情は以前と同じように強くTayoの中で脈打っていたのである。
白人という破壊者は自然を破壊しようとしているように見えるが、自然は白人の浅はかな破壊などを超越した偉大な存在である。自然ばかりでなく、愛も破壊を超越する。愛の記憶は、破壊によって痛めつけられた心を癒す。アメリカ先住民の考えでは、心と身体は、もともと一つのものであるので、Tayoは、愛によって心が回復するにしたがって身体も元気になる。愛によってTayoは心身を回復するにつれ、アメリカ先住民の共同体の発展のためのMedicine Manによる儀式を執り行うこと、部族の物語を語り継いでいくことの必要性を感じる。つまり、愛が拡張してアニマ的な力を発揮し、部族を再び統合していこうとする原動力になったのである。
たとえば、彼が山の中で自然の化身または土地の象徴ともいうべきTs’eh Montanoに出会い、彼女との性交渉を含めた愛を育むのは、Tayoに心の統合をもたらし、大地とのきずなを回復させることになった。彼は精神の回復に大地の象徴である女性を必要としたのである。Allan Chavkin がいうようにTs’ehは、伝統的ラグーナの伝説に登場するスパイダー・ウーマンの生まれ代わりとして、Tayoにシャーマン的な力を与えたといえる (Chavkin 9)。彼は愛によって「網の目」の中で思考する人間になったのである。彼を治癒する「網の目」が愛だけによって培われたのではない。彼を「網の目」に導いたのはアメリカ先住民のMedicine Manによって行われる儀式であったことも忘れてはならない。彼はMedicine Manの砂絵や物語を通して、「網の目」のもつ意味を知り、生命感覚を生き生きとよみがえらせるのである。
アメリカ先住民の儀式は、儀式を行うMedicine Manと受け手との経験の共有である。Medicine Manと受け手が密接な関係をもちながら、儀式を行いながら紡がれていく言葉は、人間性の回復を促す。それは病からの治癒に他ならない。Ceremonyの冒頭の詩に、その儀式の特徴がよく表されている。
They [stories] aren't just entertainment
Don't be fooled. They are all we have, you see,
all we have to fight off
illness and death.
The only cure
I know
is a good ceremony,
that's what she [Thought-Woman] said. (2-3)
物語はただの暇つぶしではない。病と死に神のためのお祓いには、物語がいちばんの妙薬である。ただひとつの治療法といえば、ふさわしいセレモニーを執り行うことである。物語がアメリカ先住民の部族社会に調和をもたらし、伝統的にそれが行われるのは、まさに治癒の役目をもつところの「儀式」である。「儀式」には死や破壊力に負けない健全さを保持する力があるからである。長老たちやMedicine Manの過去の生活についての知恵が、まさに現在の生活に役立つ。
儀式や物語によって、共同体の結束と調和が達成されるのは、まさに「網の目」の働きにほかならない。この「網の目」のエコロジカルな想像力は地球規模まで拡がっていく。良きにつけ悪しきにつけ、個人と世界が相同関係にあるため、彼は病気の時に自分の病気が世界の病気を反映していると感じていた。
His sickness was only part of something larger, and his cure would be found only in something great and inclusive of everything. (125-26)
Tayoは、自分の病気はもっと大きなものの一部で、その治療法はすべてのものを包み込む偉大なものの中にだけ発見しうるだろうと思う。彼の根本的な悩みは、断片化している世界に対する悩みである。アメリカ先住民と白人、純血と混血、自分の土地と他人の土地、人工と自然、神話的と歴史的といった二項対立的な分断は、知らず知らずのうちにTayoの精神を荒廃していく。彼は、数々の体験の中から自分や部族にとって何が大切かを学んでいきながら、その境界を乗り越えて調和をとりもどしていくのである。彼は宇宙的秩序に目覚め、生態学的な考えをもつこと、すなわち「網の目」に気づくことによって人間性を回復する。彼の病気治癒が世界の病気治癒になる所以である。
3. 世界の病気
「世界が病気だ」というのは、どういうことか。Tayoは、世界は「妖術」“witchery”に罹っており、アポカリプス的に破壊・破滅の道を歩んでいると考えている。世界が破滅の道を選ぼうとしていた最大の歴史的事実は原爆の製造と投下である。 BuellはCeremonyが私たちに投げかけた問題と物語のもつ意義について次のように述べている。
Silko capitalizes brilliantly on the historical facts that uranium was mined on Laguna land and that the Laguna ―― including both Tayo and Silko herself ―― are an extensively hybridized people. These contingencies allow her to develop a fiction of Tayo's cure both as an intensely particularized story of a reservation lad's retribalization and as a case study of a sickness of global scope. (Buell 286)
Buellによると、Silkoは、ウラニウムがラグーナの土地で採掘され、ラグーナの人々が、TayoとSilko自身も含めて、混血の進んだ人々であるという歴史的事実を見事に利用している。このような偶然がSilkoに、保留地の若者の再部族化に極めて特化した話として、また地球規模の病のケース・スタディーとして、Tayoの癒しの物語を書かせることになったのである。
地球の片隅のラグーナという土地とともにTayoという個人の問題が、地球全体の問題と結び付いている。Buellがいうように、それはいわば地域主義と地球主義との融合である (Buell 286)。Tayoの住む居留地の近くのラグーナという土地に採掘されるウラニウムを材料として、広島・長崎に投下された原爆がつくられたのは確かに歴史的事実である。人類が原爆をつくって使用したというのは、地球規模の病弊である。
Buell がいうようにTayoのような白人とプエブロ族両方にまたがる混血性を考えてみると、混血である人々は、境界を一歩踏み出しており、境界を越えて世界の国々の橋渡しをする先駆者の役割を果たす条件を備えている。Tayoは、戦争後遺症によって心乱れ、幻想にも苦しむ無能な人間となったわけだから、文字通り地球規模の世界大戦による犠牲者である。その彼が、心理的な統合を果たし、再部族化の決意をもつということによって個人を超え、境界を越えて、世界の秩序回復と贖罪をもたらすのである。
4.「反・網の目」としての「妖術」
世界に病気をもたらす「妖術」“Witchery”とは何か。Ceremonyにおいて、妖術の恐ろしさが次のように示されている。
If the white people never looked beyond the lie, to see that theirs was a nation built on stolen land, then they would never be able to understand how they had been used by the witchery. . . . The lies devoured white hearts, and for more than two hundred years white people had worked to fill their emptiness; they tried to glut the hollowness with patriotic wars and with great technology and the wealth it brought. And always they had been fooling themselves, and they knew it. (191)
一行目の‘the lie’とは、白人の欺瞞である。Tayoは次のように思う。もし白人が盗んだ土地の上に自分たちの国をつくったのを知りながら嘘を越えたところを見ようとしないなら、白人自身が妖術によって使われてきたことを理解することができないだろう。嘘は、白人の心を浸食し、200年以上も白人は、彼らの空虚感を埋めようと努力してきたのだった。つまり、愛国心を高める戦争や、高度なテクノロジーや、それがもたらす富などで、空洞を過度に埋め尽くそうとしてきたのである。そして、いつも白人は、自分たち自身をだましてきたのであり、また、そのことを知ってもいた。
Tayoが考えるとおり、白人は自己欺瞞の末、自分たちの物質欲を満たそうとしてアメリカ先住民の土地や労働力を剥奪してきた。4だがそのようなことで満たされた欲は、一向に彼らの心に平安をもたらさない。白人たちは、そのことを知ってはいたが、それでも健全な態度をとろうとはしない。
小説の終わりの方で、Tayoは、世界で最初の原爆実験が行われたトリニティ・サイトへ行く。破壊者の仕掛ける妖術にかかると、人類は原爆を投下するような間違いをおかす。妖術も儀式をもっており、世界の輪郭を黒い線で描くという。
The lines of cultures and worlds were drawn in flat dark lines on fine light sand, converging in the middle of witchery's final ceremonial sand painting. . . . He [Tayo] knelt and found a ore rock. . . . But they [whites] had taken these beautiful rocks from deep within earth and they had laid them in a monstrous design, realizing destruction on a scale only they could have dreamed. (246)
Tayoは、妖術師は最後のセレモニーの砂絵の中で、異なるさまざまな文化、さまざまな世界の輪郭をその中心に集合しあうよう明るい砂の上に平たい黒い線で描くと想像する。彼は膝まずいて鉱石をひとつ見つける。そこに描かれた黄色のウラニウムの縞模様は美しいものであり、地下深くから取り出されたこの美しい鉱石を白人たちは恐ろしい模様で並べてしまい、彼らしか思いつかない規模で破壊を実現してしまったのである。
Medicine Man行う砂絵は世界を結びつける創造的に「網の目」の砂絵であるが、妖術師の行う砂絵は、破壊すなわち「死の円環」“a circle of death”(246) を象徴している。世界が破壊と殺戮といういわば死に向かう興奮に包まれたとき、統一されたように思われた世界は、一気に破滅に突き進む。そのような死へ導くような力をBuellは、「反・網の目」“Antiweb”(Buell 287)と呼んでいることはすでに述べた。
5. 「妖術」をはびこらせないためには
TayoはOld Betonieによるアメリカ先住民本来の儀式に接することによって、新しい行動をとることを怖れなくなる。彼が自暴自棄になって酒浸りの時は、新しい行動をとることができなかった。Old Betonieと会った彼は、行動することが状況を変えていくことを悟る。それは、伝統についてもいえることだった。彼は伝統が存続するには変化を怖れてはならないということをOld Betonieから教えられる。変化を怖れると、白人たちがもくろむ「妖術」“witchery”(世の中に害悪をもたらす発想)に負けてしまうのである。
Witchery works to scare people, to make them fear growth. But it has always been necessary, and more than ever now, it is. Otherwise we won't make it. We won't survive. That's what the witchery is counting on: that we will cling to the ceremonies the way they were, and then their power will triumph, and the people will be no more. (126)
Old Betonieによると、妖術は人を怖がらせ、発展を恐れさす。発展はいつの世にも必要で現在は特に必要である。さもなければ、アメリカ先住民は存続できない。妖術使い達の目論見通りになってしまう。その目論見とは、アメリカ先住民たちがセレモニーのかつてのやり方にこだわっている間に、妖術使いが力の優勢を勝ち誇り、アメリカ先住民がこの世に存在しないようになることである。
Old Betonieのいわんとするところは、アメリカ先住民たちが白人の支配に対して敵対するばかりではいけない。また支配されるままでもいけない。過去にこだわることなく積極的に共存の方向をさぐること。伝統の継承において大切なのは、変容しながら伝統を残していくことである。Silkoは、口承文化であるアメリカ先住民の物語の伝統を、詩や小説というジャンルで語り継ぐことをめざしている。それは、失われていくアメリカ先住民の口承文化が、文字文化にスタイルを変えても、物語を語り伝えていくことができるというものである。Louis Owensは「網の目」「儀式」という用語を用いながら「物語という言葉の複雑な網の目は、世界を理解したり住みやすくするものとして世界を維持するために行われる儀式的な行為になる」と述べている (Owens 95)。
妖術は、自然や他者を対象化し自分とは異なる存在と見ることによって発生してくる。つまり、妖術は、厳然と主体と客体を区別し、エゴイズムを育て、支配と被支配の関係に置く。互いに相手の主体を尊重しようとする関係をつくることができればそのようなことにはならない。したがって、環境への関心をもつことは、妖術が台頭してくることを阻止することにつながる。Tayoは、次のように自分自身を振り返る。
It had been a close call. The witchery had almost ended the story according to its plan....The ear for the story and the eye for the pattern were theirs [American Natives]; the feeling was theirs: we came out of this land and we are hers. (253-55)
Tayoは、妖術の脚本どおりに物語が結末を迎えるところだったとし、危機一髪で助かったと思っている。物語を聞く耳、模様を見る眼はアメリカ先住民皆のものであり、感情も皆が共有すれば再部族化する可能性はある。この大地から生まれ出たアメリカ先住民は、母なる大地のものである。復讐に燃えれば、妖術の思うつぼである。復讐は新たな憎悪を呼び破滅へと向かう。
その反対にTayoが自然に共感をもち大地と結びつくことで人間性を回復したように妖術をしりぞけることができる。Peter. G. Beildlerが指摘するように、「人間性を回復したTayoは生命に対する世界観が変化している。彼はMedicine Man のOld Betonieと会ったあと、昆虫などの生き物に対する気遣いが増している」という (Beildler 21)。確かにTayoはOld Betonieと会ったあと次のような行動をとっている。
He stepped carefully, pushing the toe of his boot into the weeds first to make sure the grasshoppers were gone before he set his foot down into the crackling leathery stalks of dead sunflowers. (155)
Tayoはバッタを踏まないように長靴のつま先で雑草の中を探りながら歩き、(バッタが避難できるよう)枯れたひまわりの軸をわざと音を立てながら進む。そういった彼の様子に、「網の目」としてのエコロジカルな想像力を蓄えたことによるTayoの生命に対する尊敬の念がうかがえる。
人間がエゴイズムにとりつかれている間は、人間の悩みはつきない。人間中心の視点を山や海、森や湖といった自然を視点にシフトして、エゴを捨てるところに環境中心主義のエコクリティシズムの本質がある。干からびたTayoの心に潤いを与えたのは、他ならぬ自然である。エゴイズムが少なくなって環境とのより大きな調和がもたらされる。Buellはそれを「自己放棄」“self-relinquishment”(Buell 157) と呼んでいる。「場所の感覚」と結びついた「網の目」というメタファーがCeremonyにおいてTayoの世界観に世界の意味と生命力を与え続けていることがわかる。彼は、儀式や物語、それを支える「網の目」が世界を救う可能性を信じているのにちがいない。
おわりに
Ceremonyの中で描かれているアメリカ先住民は「場所の感覚」と「網の目」を精神的背景としながら、土地と結びついた豊かな生活世界を築いている。妖術をはびこらせないためには、アメリカ先住民社会についていえば過去にこだわらず変容しながら伝統を残していくことである。そのための方策はアメリカ先住民の伝統に根ざした物語を語り継ぐことにある。そこで大切なのは、伝統を固持しようとして地域に埋没することなく、地球全体の世界をネットワークとしてとらえ、自己を地球世界の一部として相互関係の中で生きること、すなわち「網の目」の中で生きていくことである。「場所の感覚」を持つということは、自己のアイデンティティを住んでいる場所に帰属しながら、エコロジカルな想像力を働かせることであった。周縁に追いやられてきたアメリカ先住民やマイノリティたちも、追いやられたところから戻ってきて再定住するか、あるいは追いやられたところに居場所を見つけて定住をはかるかどちらかになってきているようだが、 生態系としての世界にみずからの居場所をみつけ、その場所に住む意味を見出すことは生きる喜びである。Tayoは数々の辛酸をなめながら、儀式によって宇宙の調和を感じ取り、全体性を回復し、物質文明だけを重視するという地上の妖術を浄化する道を探り当てた。Tayoは断片化する社会に生命力を吹き込み、統合と全体性の回復に成功したのである。それができたのは、「場所の感覚」に加え、親戚、友人、恋人との愛を育むことによって、「網の目」の存在に気づき人間も生態系の一部であるというエコロジカルな想像力をもつことができたからである。
Notes
1 エコクリティシズムEcocriticismという用語は次のものが初出である。William Rueckert, “Literature and Ecology: A Try of Ecocriticism,” Iowa Review 9.1, (Winter 1978): 71-86.
2 1998年3月12日、Gary Snyderが仏教伝道文化賞を受賞し、その贈呈式に出席するために来日したとき、東京・麻布オリンピック・インで山里勝己によりインタビューが行われた。その中で、Snyderは場所の感覚、バイオリージョナリズム、場所の文学などについて語っている。
< http://hotwired.goo.ne.jp/speakout/ interview/980901/textonly.html >
3 本稿は第55回日本英文学会中部支部研究発表会(2003年10月18日 於金城学院大学)での口頭発表原稿「Ceremonyにおける‘土着の精神’」を修正・加筆したものである。
4 アメリカ先住民と白人との関係の歴史的な資料として次の文献を参考にした。Lucy Maddox, Removals : Nineteenth-Century American Literature and the Politics of Indian Affairs (New York : Oxford University Press, 1991), 15-49.
Works Cited
Beildler, Peter G. “Animals and Theme in Ceremony.” Leslie Marmon Silko's Ceremony: A Casebook. Ed. Allan Chavkin. New York: Oxford UP, 2002.
Buell, Lawrence. The Environmental Imagination. Cambridge: Harvard UP, 1996.
Chavkin, Allan. “Introductions.” Leslie Marmon Silko's Ceremony: A Casebook. Ed. Allan Chavkin. New York: Oxford UP, 2002.
Owens, Louis.“The Very Essence of Our Lives, Leslie Silko's Webs of Identity.” Leslie Marmon Silko's Ceremony: A Casebook. Ed. Allan Chavkin. New York: Oxford UP, 2002.
Silko, Leslie Marmon. Ceremony. New York: Viking Penguin, 1977.
