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ジーン・トゥーマーの 『砂糖きび』における「グロテスク」

 

―――  ジャック・ラカンの“シェーマL”の理論に照らして ―――

           

                                        森岡 稔

 

    ジーン・トゥーマーJean Toomer(1894-1967) の『砂糖きび』Cane (1923) は、1920年代に花開いたハーレム・ルネサンスの初期に書かれた前衛的な作品である。1『砂糖きび』は出版時期のアメリカ南部、ワシントンD.C.およびシカゴの3箇所を舞台に、アフリカ系アメリカ人の生活をつぶさに描写したものである。トゥーマーはアメリカの北部で生まれ育ったが、1921年にジョージア州スパータ Sparta, Georgia で2ヶ月間、黒人学校の臨時校長代理として南部の黒人の共同体で生活している。その時、混血の彼は南部へ行って大いに人種的な意識を刺激されている。トゥーマーもW.E.B.デユボイスDuBois (1868-1963)の言う「二重意識」‘double consciousness’ をもっていた。2 トゥーマーは『砂糖きび』の中で黒人と白人という二項対立を鮮明にした上で、黒人の魂を基軸に自らのアイデンティティを模索する。

『砂糖きび』は、アフリカ系アメリカ人のストーリーテリングすなわち口承文化にのっとっていると言われる。『砂糖きび』の詩・散文・戯曲を融合した実験的な文体、及び、ロマンチックな原始性は、第1次世界大戦後の価値観を批判した「失われた世代」に通じるものである。トゥーマーが最も影響を受けた作家は、シャーウッド・アンダスンSherwood Anderson (1876―1941)である。3 トゥーマーはシャーウッド・アンダスンの手法、「グロテスク」“grotesque” を取り込んだ。「グロテスク」とは、自己の真理に忠実に生きている者の形容であるが、自己の真理を抱く人々は、社会的にはグロテスクな存在であると見なされてしまう。

グロテスクに生きるということは、ジャック・ラカンJacques Lacan (1901-1981)の言説になぞらえるとどうなるのだろうか。彼の「鏡像理論」をかつてアメリカでもてはやされたミンストレル・ショーにあてはめてみると、白人が黒人をステレオタイプ的に見なしている「鏡像」に黒人が自己を合わせるものだと説明できる。ミンストレル・ショーも自己の真理に素直に従って生きるグロテスクも「想像界」のできごとである。ラカンの理論によってグロテスクは説明できる見込みがある。この論考では、第一に、「グロテスク」をシャーウッド・アンダスンからそのアイデアを借りてきていることを示し、グロテスクに生きるとは何かを述べたい。第二に、ジャック・ラカンの「シェーマL」という鏡像理論を紹介する。第三に、『砂糖きび』第三部のプロットに従って、「シェーマL」「想像界」「象徴界」「現実界」といった用語を駆使しながら、グロテスクとラカンの理論との関連性を明らかにしていく。

1. グロテスクとは何か

   「グロテスク」とは何であるかを説明するには、Winesburg, Ohio の中の「グロテスクな人々に関する書」‘The Book of the Grotesque’ でシャーウッド・アンダスンが述べている定義を示すことが最もわかりやすい。

 

世界中どこにでも、真理があり、それらはすべて美しかった。・・・人間はひとりずつ現れるたびにそれぞれがそれらの真理の一つをつかみ取っていた。なかでもとても強い者はいくつもの真理をつかみ取っていた。人間をグロテスクにしたのは、実はそうした真理だったのだ。・・・ 一人の人間が一つの真理をわがものにして、それを自分の真理だと言って、かつそれによって自分の人生を送ろうとする。するととたんに、その人間はグロテスクな姿に変貌し、彼の抱く真理は虚偽になる。4

 

「真理が虚偽になる」というのは、グロテスクな世界に属さないふつうの社会通念からの見方によるものである。シャーウッド・アンダスンは、Winesburg, Ohio のそれぞれの短編において自己の真理に従って生きる人々の姿を描いている。シャーウッド・アンダスンが『ワインズバーグ・オハイオ』Winesburg, Ohio の中の「グロテスクな人々に関する書」‘The Book of the Grotesque’ において彼が述べているように、自己の真理を抱く人々は、社会的にはグロテスクな存在となり、虚偽的な生活をしているとして疎外されてしまう。つまり、『ワインズバーグ・オハイオ』は、独自の真理で生きている者たちの存在がグロテスクで、社会的な規範を逸脱するものとなっていく悲劇を描いているのである。アンダスンによると、性的本能を抑圧せず、自己の真理に忠実に生きているグロテスクな人々にとっては、性的本能を肯定することは自然の成り行きなのである。だが、性的本能を恥ずべきことと捉えるヴィクトリア朝式道徳の前では、彼らはやはりグロテスクであるのだろう。

ジーン・トゥーマーはアンダスンに影響を受けたことを次のように述べている。

 

シャーウッド・アンダスンの『オハイオ州ワインズバーグ』は私の目を全く新しい可能性へと開かせた。その本は私がそれまで読んだ本の中で最も優れたものの一つだった。それらの新鮮な視点や完全に簡潔な詩句へのこだわりは、私がまさに探し求めていたものだった。私は自身の創作のための道具を手に入れた気持ちになり始めた。5

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ジョージアへ行くちょっと前に私は『オハイオ州ワインズバーグ』を読みました。小屋に住んでいる間に、黒人女性が日没に古い民謡を歌うのを聴きました。私の心に『卵の勝利』が浮かんできました。これらの本が含んでいる人生における美と完全な真理は、私が創作する上で雨と太陽のように自然な要素でした。私の種子は砂糖きび畑と綿畑と、小さな南部の町の黒人と白人の魂の中に蒔かれました。私の種子はそこで私自身の中に蒔かれました。根が成長し強くなりました。それらは広がりました。私はワシントンで世に出ました。『オハイオ州ワインズバーグ』と『卵の勝利』は、私の成長のもとになるものです。その二冊の本がなければ私が成熟することなど考えにくいのです。6 

 

ジョージア州スパータへ行く前から、トゥーマーは作家になるための技法をシャーウッド・アンダスンから得ていたことがわかる。その技法とは、下線部にあるように『オハイオ州ワインズバーグ』と『卵の勝利』の中に描かれているような美と真理、すなわち「グロテスク」を見つけ出して創作することである。トゥーマーは南部の黒人たちの自己の真理にしたがって素朴に生きる姿に共感し、その黒人たちのグロテスクをグロテスクの技法を使って『砂糖きび』を著したのである。

 

2.グロテスクを“シェーマL”を使って説明する

 

2-1 “シェーマL”の基本的4要素

  『砂糖きび』に描かれたグロテスクをジャック・ラカンの“シェーマL”の理論を使って説明することはできないだろうか。“シェーマL”とは、「主体」が「大文字の他者」「小文字の他者」「自我」と関係し合って自己イメージが移動する回路を、『エクリ』の冒頭の論文『盗まれた手紙』についてのセミナールで紹介された図式である。7  まず、この図式で用いられた4つ の用語、「主体=S」「自我=a」「大文字の他者=A」「小文字の他 者=a’」の説明をしなければならない。

 

    ①「主体=S」とは、簡単に言えば「自己」である。

    ②「自我=a」とは、とりあえず据えられた自分であり、鏡像関係にある「小文字の他者=a’」と

          セットとなって、お気に入りの見栄えのいい仮面をつくる。

    ③「大文字の他者=A」とは、ラカンが「象徴界」と呼ぶ言語の 世界を形成し、人間を規定する

          ものである。

    ④「小文字の他者=a’」とは、「自我=a」の「鏡像」である。生まれたばかりの乳児は鏡の中に

          映る像を自分であると推測する。つまり、鏡の中に映る自分の身体を視覚的に把握された「

          鏡像」である。

 

「鏡像」すなわち「小文字の他者=a’」は、「主体=S」に「あなたはこれですよ」とささやきかける。「自我=a」は、鏡のむこう側にある「小文字の他者=a’」が自己像同じものであると思い込む。簡単に言えば、自分が人にどう見られているかである。ラカンはこの「自我=a」と「小文字の他者=a’」を「鏡像関係」と呼ぶ。8

私たちは、自分が自分であることを実感していても、本当に自分が存在している確証を示すことができない。したがって、自分が何であるかを示すこともできず、自己のイメージをとりあえず示す「鏡像」とともに毎日を過ごしている。そこで、自分が他者の目にどのように映っているかをもっと知りたくなる。そうなると今度は、他者に自分が立派なよいものとして受け入れてほしいと願うようになる。他者が鏡となって自己イメージが投射されるわけだが、鏡に姿を映し出すように、実際は鏡に向かって独り言をいっているにすぎない。というのは、自分が他者に話しているつもりでも、他者の言葉を自分なりの解釈で理解するしかなく、「自分はそのように考える人間だ」という自己イメージの輪郭を補強するだけで、結局は自分についての理解でおわる。他者も同じように、自分に対して自己イメージを投射しているのだから、お互いが鏡を見て話しているようなものである。

「小文字の他者=a’」は「自我=a」について語るが、それが本当を表しているかどうかわからない。一人だけでの意見では安心できず、できるだけ多くの人が自分についてどう思っているかを知りたいと思い、他者たちの中をさまよう。そこで、一度自分を「記号」にして、広い世界に投げ出し、自分がどのように見られているか、そして自分というものが何であるかを確認することが、言語の世界の「象徴界」に出るということなのである。

 

2-2 「想像界」「象徴界」「現実界」

   ジャック・ラカンが提示した「想像界」「象徴界」「現実界」とは何であるかを説明しなければならない。

「想像界」はイメージの領域であり、代表的な想像的関係は母と子の関係である。母と子は一体であり、子は母の欲望である。「想像界」では、子にとっての母は、この世で唯一の自分の姿をまるごと映し出してくれ、信頼して自分をあずけることができるという他者であり、そのまま自分でもある。この「想像的関係」は自己愛的なパラノイアをもつ。つまり、自己を想像的関係にある他者にあずけてしまった主体は、おのずから愛憎の関係に縛られていくのである。母のように自分を丸ごと映し出していると感じられるような相手に対しては愛を感じる。ところが、その反対に自分が誤解されて相手に取り込まれていると思えば、自分を取り戻すために、主体は相手に憎しみを感じて立ち向かおうとする場合もある。「想像界」はこのように愛憎のうずまく領域なので、人は本能的にこのままでは危険だと思い、「想像界」から抜け出したがる。その行き先が「父の法」が支配する「象徴界」である。

  「象徴界」は簡単に言えば、「言語の領域」である。「想像界」とは別個にあるものではなく、「想像界」の延長上に「象徴界」があると考えてよい。自己のイメージを確認するには他者が必要なので「想像界」も「象徴界」もその点では同じである。違いは、「想像界」は、母が子にするように、自己の鏡像を微笑みながら迎えてくれる他者のいるところであったのに対し、「象徴界」は、外部から語られることによって「大文字の他者」という「多数の他者」が自己イメージの承認をしてくれるところである。すなわちそれは、多数の声である「大文字の他者=A」が本来の自己である「主体=S」を理解しようとすることに他ならない。

最後に「現実界」のことを言わなければならない。「想像界」や「象徴界」は外部から自己イメージが与えられ、それを自己が認識する領域であり、自己イメージを保証してくれるので、人間が生きていく上での方便とも言える。ところが「現実界」は生々しくも荒々しい領域である。人は「想像界」や「象徴界」にいても、その背後には自分を保護してくれる「想像界」や「象徴界」以外に、無意味で味気のない、無機質な世界がひろがっているのではないか心のどこかで思っている。そのために、不気味な現実界を横目で睨みながら、せめて「象徴界」の中で、他者たちに囲まれ自己イメージを確立していたいと願うのである。

   「現実界」のことはさておいて、「想像界」と「象徴界」の関係であるが、事態はそう簡単ではない。“シェーマL”の図にもどることにしよう。

a―a’の関係は「想像的」な「鏡像」関係である。「自我=a」が発した自己イメージが、「小文字の他者=a’」で「鏡像」となり、「自我=a」に跳ね返ってくる。つまり、想像界の軸は、鏡に映った「小文字の他者=a’」に「自我=a」が自己を同一化しているようすを表している。だからa’ は他者であるにもかかわらず、aにダッシュをつけただけなのである。一方「象徴界」の「大文字の他者=A」でとらえられた自己イメージは無意識レベルで「主体=S」に自己イメージの情報を与えようとする。「主体=S」は一方的に語られる「大文字の他者=A」の語らいを受動的立場で聞いていなければならない。ところが、AからSに向かっていた矢印は、「想像的な軸」に阻まれて、もう一度「大文字の他者=A」に立ち戻り、「主体=S」に送るはずの情報を「自我=a」に情報を送り直すしかない。そして、「主体=S」は、「自我=a」を介して「大文字の他者=A」の情報を得るのである。したがって、AからSは途中まで実線であとは点線になるのである。「主体=S」の真理は、常に「想像的」な壁にぶつかり、いつまでたっても「大文字の他者=A」からの「主体=S」の本質についての語らいを理解せずに終わってしまうのである。

   しかしながら、「主体=S」は、本当の自己イメージを獲得しようと「自我=a」と「小文字の他者=a’」との癒着によってできあがった「想像界」のとばりに切れ目を入れ、「大文字の他者=A」のメッセージを聞こうとすることは一生やまることはない。

 

2-3 グロテスクは何にあたるのか。

 実は、“シェーマL”図にあるような、「想像界」「象徴界」のコミュニケーションのあり方はどの分野でもある。組織にしろ、共同体にしろ、そのエリア内で閉鎖的に特有の言葉や論理を共有しあって、同語反復的な話し合いをしているのがそれである。お互いの「鏡像」で自己イメージを確認して満足し、「想像界」から抜けだそうとしない。そこに進歩はあるのか。それでいいのか、という問いが内部から、あるいは外部から発せられることがある。内部から発せられたこのような声がデュボイスであり、外部から発せられたのがジーン・トゥーマーである。

グロテスクは“シェーマL”図においては、「鏡像」の「想像界」である。「大文字の他者=A」から見れば、そこに生きる黒人たちは純朴で、土地の言葉で話し、生活もその日が幸福であれば満足している。性的にもおおらかで、牧歌的に暮らしてはいる。ところが、一方で、人種差別や貧困で苦しんでいたりする。黒人の世界から外の世界をあこがれる者はいるにちがいない。黒人の指導者や外部で教育を受けた者たちを除けば、内部から声を出す者はいない。グロテスクが「想像界」であるとすると、いずれは誰かが「想像界」の軸のどこかに穴をあけ、「象徴界」に通じる道を切り開かなければならない。だが、グロテスクを下等なものとして排斥するのではなく、グロテスクな世界が、いかに深い人間性に支えられており、普遍性を持っていくことを「大文字の他者=A」のいる「象徴界」で確認してもらうこと、黒人たちの魂に根ざした文学がいかに力強く、感動的なものかを「象徴界」に流し、歴史にとどめることが大切なのである。

母と子というアナロジーで表される「想像界」に「父」は侵入し、「父の法」という禁止の法を突きつけて欲望を抑制して、外の広い言語の世界、すなわち「象徴界」へと自己イメージを参入させる。ジーン・トゥーマーは、混血であり、学識も黒人と白人の両方の学校から得ているので、外部からの切り込みである。

   ジーン・トゥーマーは、『砂糖きび』においてグロテスクを賛美しながら、黒人の共同体の内部から外の世界のあこがれを描いており、一方的に黒人賛美をしているのではない。トゥーマーは、グロテスクという手法を使って「想像界」の中に「大文字の他者=A」へ通じる亀裂を生み出して「象徴界」へ参入する回路を確保するために、『砂糖きび』という作品を手がけたのである。

繰り返しになるが、人は「象徴界」の段階に丸ごと移行するわけではない。「想像的関係」を引きずりながら生きていく。「想像界」でも「象徴界」でも、主体は他者たちの声を聞きたいばかりに、自己イメージを映し出してくれる他者を見つけようとする。人は、「鏡像関係」にある特定の他者の目に映った自己イメージではなく、もっと普遍的な他者からの視線からの自己イメージを見てみたいという願いをもつ。しかし、「想像界」と「象徴界」とはただ方法が違っていて、「想像界」では愛憎関係のもとに、自分を他者にあずけるのに対して、「象徴界」においては、「大文字の他者=A」という複数の他者の声があるので、その自己イメージは、本来の自己そのものでないにしても、広い世界に流通する。自分を「記号」という生命なき象徴に置き換えるのは、主体の立場から言えば危険な行為であるが、自己イメージを多数の声から得るという果実を手に入れることができる。また、象徴の海の中で、自己のイメージは固定されず流動的であるので、自己イメージが特権的にひとつのところに居座ることはない。9 流動的であることで、よい面もある。他者が自己イメージにこだわっている間に当の本人は、そのイメージとは本質的にちがうところへ言ってしまうことがあるので、傷つくことはない。想像的な関係の場合は、もろに傷つくが、「象徴界」において自己イメージという「記号」が傷つくにすぎない。その時「主体=S」は安泰である。

 

3.『砂糖きび』における「想像界」のグロテスク

 『砂糖きび』は三部構成である。それぞれの舞台は、第一部はジョージア、第二部は首都ワシントン、第三部の舞台は再びジョージアにもどる。その内容は第一部と第二部を踏まえたものとなっている。10

『砂糖きび』の南部の黒人たちは、自己の真理に基づいた行動をとり、物質文明に浸食され、近代社会が失った人間性をあたりまえのように保持し、豊かに生きている。トゥーマーは『砂糖きび』において黒人の魂に支えられたグロテスクをどのように表現したのだろうか。この論考は第三部の戯曲にしぼって、プロットに従いながら第1章から第6章までグロテスクをラカンの理論を照らして議論する。

 

3.1. 第1章

 北部出身者の混血のキャブニスKabunis は教師としてジョージアの山腹の黒人学校にやってきた。彼の混血のアイデンティティは安定していなかったので、南部にそれがあるかもしれないと期待して彼はやってきたのだ。だが、南部の雰囲気はどうもしっくりこない。南部に美を求めていたのに、醜悪なものが彼を圧迫する。特に夜が最悪で、人をリンチする土地柄での静寂は墓場のような不気味さがある。孤独と恐怖で彼はどうも落ち着かない日々を送る。黒人が貧しいながらもけなげに南部の世界で生きていることはわかっているものの、今の彼には、南部の土地のリンチの恐怖の方が勝っている。

 キャブニスにとってリンチの恐怖は言語化できないために恐怖のままである。人は言語を習得し、体験を言語という記号に置き換える方法を知らなければ体験を客体化できない。さらに、経験を自分なりの物語に変えなければ、せっかくの経験が意味のあるものにならない。キャブニスには、リンチという現実は、「記号」の指示対象(レファレント)として登録されておらず、理解できないので恐怖の感覚が生々しく残るのである。言語にできないため、「象徴界」を素通りして「現実界」の不気味さがキャブニスにせまってきており、彼は現実におびえている。 

 

3.2. 第2章

   学校近くのフレッド・ハルゼイFed Halseyの家の客間で、教師兼牧師のレイマンLayman、鍛冶屋ハルゼイとキャブニスの3人の男たちが話し合っている。ハルゼイによると、キャブニスは北部の黒人特有のすましたところがないので、南部の人々から好かれているという。レイマンは、自分の生活を守るために黒人に対する差別的な扱いに対して妥協している。リンチが横行していても、抗議行動をとる勇気がなく、沈黙をひたすら守っている。ハルゼイもレイマン同様、南部の黒人の地位には不満だが、黒人に対する屈辱的な待遇を甘受している。レイマンは、北部の者の言うような南部の恐怖などない、とキャブニスに嘘をいう。キャブニスは、見え見えの嘘を言うレイマンへ不満をつのらせる。

レイマンもハルゼイも黒人の「想像界」に満足しており、北部の者たちが非難する南部の人種差別の恐怖などないと、自分たちから「象徴界」への参入を拒否している。内部からの地位の向上をめざさないのである。

ハルゼイとレイマンは、キャブニスにルイスLewisの話をする。ルイスは黒人差別に関してよく記録をとる人間で、かつてのメイム・ラムキンズMame Lamkinsのリンチ事件についても克明にメモをとっていた。メイム・ラムキンズ事件というのは、メイム・ラムキングという黒人女性が、妊娠していたにもかかわらず街路で白人にリンチに遭い、白人が腹の中の赤ん坊もナイフで突き刺して、木に張り付けたという残酷なリンチ事件である。そんな悲惨なリンチ事件を聞いてキャブニスが震え上がっていると、窓ガラスを破って紙に包まれた石が投げ込まれた。その紙にはこう書かれてあった。「北部の黒んぼよ、もう引き上げるのがいい頃だぜ。すぐ出て行くんだ」“You northern nigger, its time fer

y t (for you to) leave. Git(Get) along now.” キャブニスも混血といえども黒人である。南部の黒人たちに好かれていても、白人たちから見れば黒人で、南部の黒人たちと変わらない。キャブニスは怖くなって、学校の方へ逃げ出す。

キャブニスは、メイム・ラムキンズ事件についても自分が実際に体験しない「他者」の物語であるから、わけもわからずおびえている。象徴化できないから、恐怖を外在化できないでいる。北部では混血であるがゆえ、白人から迫害を受けなかったが、初めて白人から排斥を受けた。キャブニスはその恐怖を心の中で指示対象(レファレント)を探し求めた結果、結局またリンチ事件と結びつくしかなかった。キャブニスが五感で覚えた「現実界」の不気味な恐怖は、言語化できないために心に染みこむ。

 

3.3. 第3章

    ハルゼイとレイマンは、逃げ出したキャブニスを追いかけた。二人は学校の一室で彼を見つける。ハルゼイはキャブニスを落ち着かせようとウィスキーをすすめる。学校では教師は、飲酒はもちろんのこと煙草ですら吸うことを許されていない。そこへ学校近くに住んでいる黒人校長サムエル・ハンビィSamuel Hanbyが入ってくる。ハンビィは黒人なのに、まるで裕福な白人地主のように学校で君臨している。この校長の方針はまず教師が手本を示して、青少年を善良に導くことである。ハンビィは校内でウィスキーを飲んだキャブニスを許すことはできない。辞表を提出するようキャブニスにせまる。キャブニスは、自分の部屋で酒を飲むのは構わないだろうという。だが「自分の部屋」ではなく「学校の部屋」であるとハンビィに一蹴された。そのやりとりを見ていたハルゼイはキャブニスをとりあえず自分の鍛冶場で働いてもらうと言ってかばう。レイマンはキャブニスに黒人に優しい北部にもどるようにすすめる。レイマンにそう言われて、キャブニスは北部と南部とでは黒人に対する見方のちがいをいまさらながら思い知る。

   北部と南部が、記号となって「象徴化」されている。北部は黒人に対して優しく、南部は黒人差別の残っているところであるという記号である。『砂糖きび』は、二項対立を激しくさせて黒人と白人の問題を浮き彫りにし、解決策をはかろうとする作品である。それまで、黒人を社会に登場させるときは、二項対立を避けてミンストレル・ショー的に黒人イメージが固定されていた。ミンストレル・ショーは、白人が顔を黒く塗る場合と、主に南北戦争以後に黒人が顔をさらに黒く塗る場合とがあるが、両者は意味が異なる。白人が顔を黒く塗る場合は、“シェーマL”図でいうならば、白人は黒人にとって想像的な「小文字の他者」であり、主人(白人)と奴隷(黒人)の関係である。ところが、黒人が黒い顔の上にさらに顔を黒く塗るのは、黒人があえてステレオタイプの黒人の仮面をかぶることである。黒人が主人と奴隷の関係に甘んじるか、あるいは出し抜く機会をねらう擬態であるかのどちらかである。擬態的なものは、しだいに想像的関係から象徴的関係へと段階が移っていく。記号として一応ステレオタイプの黒人像を置いて時間をかせぎ、次のシニフィアンへとずらしていくのである。

  『砂糖きび』では、ミンストレル・ショーのようなまわり道の搦め手の作戦をとらず、正面きって二項対立をあぶりだす。そのために、『砂糖きび』では、黒人なまりの言語と白人の言語の対比がなされており、二者の間の緊張感を高めている。その緊張を高めた上で、黒人の魂の素晴らしさを前面に押し出し、二項対立を止揚することで人種差別や主従の関係などが無意味なことを表現している。

 

3.4. 第4章

   学校を辞職し、キャブニスはハルゼイの鍛冶屋で職人として働くことになった。ハルゼイの仕事場は古びた建物であった。地下室には「穴蔵」と呼ばれるところがあってファーザーFatherと呼ばれている老人が住んでいるという。そこへ、レイマン、ルイスと順に入ってきて話し合う。その話し合いの中で、キャブニスはハルゼイがフランスや北部に行ったが、結局南部にもどってきたことを知る。ハルゼイにとって南部以上に親しみのもてるところはない。昼食の時間になったので、年頃のハルゼイの妹、キャリー・Kが弁当を持って入ってくる。キャリー・Kが地下の穴蔵へ弁当を持って行こうとするので、ルイスはハルゼイに穴蔵に誰が住んでいるのか好奇心をもって尋ねる。

 ハルゼイがフランスや北部に行ったのに、なぜ黒人にとって窮屈な南部にもどってきたのか。想像的な主人と奴隷の関係が成り立つ南部に「記号」をずらしながら新しいシニフィアンへと移し替えていく「象徴界」を外部で味わったハルゼイは、想像的な南部に風穴をあけようとしにもどってきたにちがいない。ハルゼイ自身はそのようには言わないものの、南部での黒人の厳しい扱いを考えると、ただのノスタルジアだけで漫然と戻ってきたのだとは言えない。同じくキャブニスの位置も、南部の「想像界」に切れ目をもたらすものだけに、彼のハルゼイに対する興味は尽きない。

 

3.5. 第5章

 ある日ステラStella(黒人女性)、コーラCora(混血女性)、ルイス、キャブニスがハルゼイの後について、地下の穴蔵に入っていく。穴蔵の中には、ファーザー・ジョンFather John が住んでいた。彼とともに、合計六人が話しあう。穴蔵の中でひとりひとりが順に話を始める。ステラは地下の穴蔵の住人が、彼女の父親に似ているという。彼女の父親は歌をよく歌い、彼女の母親が白人に奪われたときのショックで、心臓麻痺で死んだ。現在、彼女自身もいろいろな男性に自由にされている。ハルゼイもその男性たちのひとりである。ハルゼイは、住み慣れた南部にもどってきたと話す。ルイスは聞き役に徹していた。キャブニスに話の順番が回ってくると、彼は穴蔵の雰囲気がそうさせるのか、傍らのファーザー・ジョンの不気味なオーラがそうさせるのか、取り憑かれたように自分が南部にやってきたわけを話しだす。まるで、ジーン・トゥーマーが心の内をあらいざらい吐露しているかのようである。

  

おれの魂に焼き付けられた型っていうのはな、夢、それもひでえ悪夢から這いこんでくる何かねじれた恐ろしいもので、おれがそいつを食ってしまわなきゃ、いつまでもそこに住みついてしまうものなんだ。そしてそいつは言葉を食って生きていく。美しい言葉をじゃない。そんなものとはてんでちがう。不格好で、裂けた腸みたいな、よじれ苦しみ、ねじれた言葉をだ。・・・白人どもがそいつを食らうのはやつらの外面が言葉だからさ。黒んぼ、黒い黒んぼがそいつを食うのは、それらが弊害であって彼らの外面が言葉だからさ。臆病な黒んぼはみんなそいつを食べているんだ。このいやに、うぬぼれた紫色のくだらねえ田舎全体は言葉の神聖な大崩壊の中で、地獄へ転落しているもんだから、そいつを食べているのさ。おれはその魂の方を食べたいと思っているんだ。(Cane, 111)

 

   黒人の暗い過去がずっしりと南部に影を落としている。黒人の魂とともに不幸な過去がまとわりついている。その歴史をぬぐい去ることはできない。南部の黒人たちは、本来の黒人の魂をもっていて、人間らしさを強烈に発揮できるはずである。それは自己の真理に従うグロテスクな世界である。ところが、白人たちは黒人たちに対する虐待を覆い隠そうとし、主人としての地位を確保するために、都合のよい言葉で南部の出来事を言いつくろってきた。黒人を醜悪で能力の劣ったステレオタイプに押し込め、黒人はその支配に屈するしかない。反抗すべき黒人たちもそれを許してきてしまっている。ハルゼイ、レイマン、ファーザー・ジョンがその例である。白人たちは、自分たちの言葉を食べ(支配し)、黒人たちも自分たちの言葉を食べ(服従し)、お互いが主人と奴隷の関係という「想像的な関係」を所有しあっている。主人がいなければ、奴隷はおらず、奴隷がいなければ主人はいない。ジーン・トゥーマーの代わりであるキャブニスは、南部の「主人と奴隷の関係」を早く断ち切らなければならないと考えている。そこでキャブニスは、本来の黒人の魂を表現しなければならないと思っている。ところが、キャブニスが黒人の魂、すなわち自己の真理を守っている姿をそのまま描いても白人たちによって「グロテスクなもの」として片付けられてしまう。グロテスクを一面的な、醜悪なものにしてしまっているのは、白人たちが彼らの言葉によってつくりあげた黒人のマスカレード(仮面)なのである。キャブニスはこのマスカレードを黒人が好んでかぶっているだけではいけないと考えている。

 

3.6. 第6章

   穴蔵の中で寝入ってしまったキャブニス、コーラ、ステラは、鍛冶場の仕事が始まったとしてハルゼイに起こされる。炉の中で石炭が赤々と燃えている。目がみえず、耳も聞こえないファーザー・ジョンは火の番をしながらつぶやく。地獄の底からうめくような声である。「抜きがたい罪・・・白人どもにしみこんでおる」“Th [The] sin whats fixed….upon th [the] white folks” それがファーザー・ジョンの言葉だった。彼は耳目が困難であっても、白人たちがなしてきた罪を感じ取っている。黒人たちを奴隷にし人種差別をしてきた白人たちは、聖書が導く教えを嘘だらけのものに変えてしてしまった、とファーザー・ジョンは悲しんでつぶやく。だがキャブニスはそんなファーザー・ジョンにいらだちを隠せない。なぜならば、ただうめくだけで抵抗を示さないからだ。

キャブニスはまだ、自分の本来のアイデンティティを南部の中に見つけ出せず、白人の人種差別の厚い歴史の壁にさえぎられて、黒人の魂も救い出すこともできていないでいる。キャブニスは、南部の悲しみを象徴するファーザー・ジョンのうめきを聞いて当惑する。混血のキャブニスは、ふつうの混血のように白人化するのではなく、黒人化することで自己意識を確立しようとしている。だから、ファーザー・ジョンのうめきは彼の決心をぐらつかせる。ジレンマに苦悩するキャブニスを包むようにして理解してくれたのは、キャリー・Kである。キャブニスはキャリー・Kの前で、目をつむり、膝をついて、身を沈める。キャリー・Kは彼の頬を両手ではさみ、彼の顔をやさしく自分の顔にあてる。ファーザー・ジョンが白人の虐待を受けた黒人の無念の象徴だとすれば、キャリー・Kはまさに南部の自然と純粋な黒人の魂の象徴である。キャリー・Kの南部の黒人の魂に触れることによって、ついにキャブニスは黒人としてのアイデンティティを見つけ、グロテスクな存在になることができた。

トゥーマーが『砂糖きび』を書いたのは、南部の黒人の生活、田舎の風景、信仰、原始的な性本能など、近代文明とは対蹠的なグロテスクな世界を美として感じ芸術として残したかったからである。そうすることによって、グロテスクが新たなシニフィアンとなって、黒人という記号に多様な意味を加えることになるのである。

 

おわりに

  ジーン・トゥーマーがシャーウッド・アンダスンから学んだ「グロテスク」な存在とは、世の中にある無数の真理の中から独自の真理を選びとって生きている人々のことであった。『砂糖きび』の登場人物たちは、自分の持っている真理ゆえに社会的にはグロテスクな変人となってしまい、孤独な生活を余儀なくされることもあった。彼らの中には、人間の性的本能を隠すことなく生きているため、通常の美徳とされる貞節や節度ある人生態度からは逸脱しているように見られる人物もいる。

第三部のキャブニスは、南部において混血で中産階級の黒人のアイデンティティを模索している間に、グロテスクな生き方をしている人々と出会い、最後に南部の黒人の魂に触れて自己を発見する。グロテスクな存在である必要条件は自己の独自の真理にしたがうことであるが、黒人には、黒人であることを真理として生きるという条件がつけ加えられる。キャブニスを含めて黒人たちは、自分が黒人であることを再認識して初めてアイデンティティを確立することができるのである。トゥーマーが『砂糖きび』で描き出したかったのは、人種差別を乗り越えた南部の黒人の魂の美である。彼はグロテスクと言われている黒人の魂の美を芸術とし物語として残すことで、「象徴界」の中に新たな黒人のシニフィアンの位置を与えたのである。

ジーン・トゥーマーの『砂糖きび』が出版された1923年はハーレム・ルネサンスの時期である。アメリカ文学界における黒人の原始主義やそれに伴う南部の田舎へのあこがれといった流行に『砂糖きび』の出版は合致したが、トゥーマー自身はハーレム・ルネサンスには距離を置いていた。『砂糖きび』執筆の動機は、個人的にはトゥーマーの父がジョージアのプランテーション所有者であったというルーツをもっていたからだが、近代文明の物質主義で失われた人間性の回復をしなければならないという時代の要請に彼は無縁ではない。孤独で経済的にも困窮したジーン・トゥーマーが、混血のアイデンティティのよりどころとして南部の黒人の魂に活路を求めた結果、『砂糖きび』ができあがったのである。

              

                              Notes

 

1   Jean Toomer. Cane: an authoritative text, backgrounds, criticism. Edited by Darwin T. Turner. (New York : Norton, 1988), 160. [以下、この本からの引用は、(Cane,頁数)とする]

『砂糖きび』は次のような翻訳がある。ジーン・トゥーマー著 木島始訳『砂糖きび:黒人文学全集 ; 第4巻』早川書房, 1961年。『砂糖きび』本文の訳については、この本を参照し拙訳をつけた。

2 「二重意識」とは、アメリカ社会の人間であるというプライドと、白人社会からの抑圧の下で暮らすアフリカ系アメリカ人であるという二重のアイデンティティをいう。

3 『砂糖きび』にトゥーマーが『オハイオ州ワインズバーグ』Winesburg, Ohio (1919)と『卵の勝利』The Triumph of the Egg (1921) の中で使われたグロテスクの手法を取り  入れたことはよく知られている。

4  シャーウッド・アンダーソン著、金関寿夫訳『世界文学全集31 南回帰線 ワインズバーク・オハイオ』7頁。これを参照し拙訳をつけた。原文は、Sherwood Anderson. Winesburg, Ohio (1919, Harmondsworth: Penguin Books, 1992), 23-24.

5  Jean Toomer, “Outline of Autobiography” (Unpublished manuscript, ca, 1934) Jean  Toomer Collection, Fisk University Library, 15. これはフィスク大学の図書館のジー     ン・トゥーマー・コレクションにあり、出版されていないので入手困難である。したがって、次の資料から引用した。Brian Joseph Benson & Mabel Mayle Dillard. Jean Toomer (Boston : Twayne Publishers, 1980, Twayne's United States authors series Vol. 389),  22. [以下この本からの引用は、原典に加えて(TUSAS, 頁数)として書き記す]

6  Jean Toomer, “Outline of Autobiography”, 55-56. (TUSAS, 23)

7  ジャック・ラカン著、宮本忠雄他訳 『エクリ』(弘文堂、1972年)63-66頁。

8 “シェーマL”については、『ラカン 鏡像段階』福原泰平 (講談社、1988年) 90-99頁と『歴史とトラウマ 記憶と忘却のメカニズム』下河辺美知子(作品社、2000年)126-134  頁 がとても参考になった。

9 『ラカン 鏡像段階』、152-154頁。これを参考にし、自分の解釈を施した。

10  ウォルド・フランクに宛てた手紙(1922年12月12日付)の中で、トゥーマーは、『砂糖きび』の構成が「円」であると言っている。『砂糖きび』の舞台は、南部から北部、そして再び南部といったように循環する。“CANE’S design is a circle...Regionally, from the South up into the North, and back into the South again.” (Cane,152)

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